凜が怪訝そうに果朶を見る。

 飛んできた一羽の鳥が、廻廊の欄干に留まった。


「最初はさぁ、一目惚れだと思ったんだけど」


 よくある話だ、と思った。ちょっと綺麗なものを見たせいで、熱に浮かされたようになったのだろう、と。


「の割には、めげないじゃん? けどさ、本気にしては軽すぎるよね。中身ごと好きっていうなら、あんなに軽々に結婚だのなんだの言えなくない? っていうかまず、俺、あの子に対して態度が悪いし」


 いっそ好意は演技であり、自然に〈望淵ぼうえん〉に出入りするためにやっていることだと言われた方が納得する。

婚外子であるとは言え、賢裔三家けんえいさんけの令嬢が綺羅晶掘りと結婚など、現実的とも思えない。

 

考え込んでいる果朶かだに、凜は、憐みとも呆れとも付かない眼差しを注いだ。

「本人に聞けばいいだろ。おーい、嬢ちゃん。果朶から話があるらしいぞ」


 糖水とうすいを配っていた彗翅すいしが顔を上げた。

 窓からは吹き込んでくる風は、温風と言っても差し支えないほどだったが、彗翅の周りは不思議と涼しげな雰囲気だ。爽やかな青の上衣のせいで、そう見えるのかも知れない。


「いや、話はないよ。俺も糖水、もらっていい?」

 彗翅は嬉しそうに微笑んだ。

「勿論です! 今ならおまけで、私というお嫁さんも付いてきますよ!」

「それはいらない」

「分かりました! また、次の機会にもらってくださいね!」


 再び〈望淵〉の扉が開いて、厭朱えんじゅがよろめきながら入ってきた。

右手に長煙管、左手に木のさじに似たものを持って、頬や首をころころと擦っている。血流をよくしてくれる、老化の防止に効果のある器具らしい。


「ざっけんじゃねぇや……〈東濠とうごう〉の連中、学院が提供する花火の発数、桁数違えて教えてやがった。急いで段取りを練り直さないと……ったく、こんなんじゃあ顔の浮腫むくみがいっかな取れない。老けちまうじゃねぇですかい……」


絶望の表情で、奥の間へと消えていく。〈東濠〉との折衝が増える夏場は、厭朱も珍しく弱っている。


よく冷えた桃の蜜で白玉と小豆を浸し、枸杞くこの実を散らした糖水は、くたびれた頭の芯をすっきりと癒してくれた。



 恋だの愛だの、苦手だった。


 ふらりと入った菜館さいかんの品書きに、辛いものばかりが並んでいた時と同じくらい、うんざりする感情だ。


 果朶の襟首を引っ掴んで、甲高い声が叫ぶ。脂粉のひどい匂いがする。

『あんたのせいよ! あんたを養子に引き取ってから、あの人は、私に目もくれなくなったんだわ!』


 あるいは、知らない女が胸元に縋り付いて、さめざめと泣いている。表情を動かさない果朶に、往来の視線が突き刺さる。

『あなたのことを忘れられなくて、旦那も子どもも置いてきたのに。なんで、そんなに冷たい顔で、そんなにひどいことが言えるの……』


巻き込まれても、関わっても。

碌でもないことばかりだった。


彗翅のことも、最初は確かに不快だった。早々に諦めて欲しかった。

最近それほど嫌悪がないのは、結婚云々のやり取りが、繰り返され過ぎてむしろ喜劇化したせいだ。

深いところに立ち入れば、また、関わるのが嫌になる。


「あーあ、手紙を書くのって苦手だわ。そもそも文字が下手って言うか」

「だから代筆屋に頼んでたのに。上手い言い回しなんてできないわよ」

「なんとかならないの、雨禾うか? ああっ、また書き損じたわ。紙だって安くないのに」


 背後から、娼婦たちの声が聞こえてくる。

月季館げっきかんの炊事場で、彼女たちは卓を囲み、慣れない手つきで筆を走らせているのだった。


ホワ小姐しゃおじぇ、袖に墨が付きそうだよ。新しい紙を置いておくね、シュエ小姐。みんなの気持ちは分かるけど、今の時期は自分で書くのが一番早いよ」


 雨禾がのんびりした声で諭す。


彗翅が、〈望淵〉に糖水を差し入れた日から、何日かが経った朝だった。

果朶は、雨禾と娼婦が会話するのを、月季館の勝手口に腰掛けて、聞くともなしに聞いていた。


 花煙節かえんせつが近付いて、忙しくなるのは綺羅晶掘りだけではない。

紅灯廻廊こうとうかいろうの娼婦たちは、花火を見ようという口実で上客たちを誘い出す。それに伴い、代筆屋が繁盛し、請け負いきれない分を断り始める。お陰で、雨禾のような付き人は、なにかと帰りが遅くなりがちだった。


廻廊を挟んだ斜向かいで、木箱を背負った煙草売りが、娼婦から呼び止められていた。どこかで見た顔だと思い、少し前に美蘭廻廊めいらんかいろうにいた者だと気付く。


よく見ると、存外に若かった。華々げげ慈々じじと同じ年頃の少年だ。泣きぼくろがあるせいか、年の割に艶めかしい。


「夜勤明けで疲れてるところ、ごめんね、果朶。倶姫ぐきの詩を引用したいって雪小姐が言ってるんだけど、どんなのだったか覚えてる?」


雨禾に呼ばれて、果朶ははたと我に返った。

憂い顔をした雪が、思い出せそうで思い出せないのよねと唇を尖らせている。

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