倶姫ぐきは、三賢さんけんの一人であるきょう貴凰きおうの愛人であり、美貌で名を馳せた娼婦だった。 

 歓楽街に勤める者は、どんなに詩歌が苦手であっても、周囲の娼婦が倶姫の詩を引用するので、自然と覚えるようになる。


「ほら、あったじゃない。あなたに一晩会えないだけで、まるで三月が経ったようだ、みたいな詩」

「ああ、あれね。貴凰きおうと初めて会った次の朝、倶姫ぐきがしたためて送ったやつでしょ。覚えてるけど、この紙に書いてもいいの?」

「そう、それ! いいわよ、……って、待って。その文字、ちょっと違うんじゃない?」

 反故ほごになった紙に書き進めていた果朶かだだったが、二行目に差し掛かった辺りで、怪訝そうなシュエに止められる。


 果朶は動じず、首を振った。

「そう? もしかして、普段はこっちの文字を使ってるとかじゃない? 二種類あるんだよ、この文字。意味は同じだから、どっち使っても大丈夫。異綴っていうんだけどさ」

 淀みない説明に、雪は納得の表情を浮かべた。

「そうなのね、知らなかった。あたしこの前、そっちの文字で書いてた子に、間違ってるわよって言っちゃったかも」


 勘違いだったって謝らないと、と呟いている。

 手元に注がれる雪の視線は、果朶に既視感を運んできた。


 かつて果朶は、一人の少女に読み書きを教えていた時期があった。予科生よかせいだった頃のことで、もう十年近く前になる。


 ともすれば游子ゆうしに関する知識以外はからっきしといった予科生も少なくない中、果朶は博識な方だった。夜行やこうに教え込まれたのだ。


『教養は、お前の格を上げるものだ。私の子になったのだから、身に着けておかなければいけないよ』


 果朶を引き取って間もない頃、先生夜行はそう言った。口元に、穏やかな笑みを刷いていた。


 気象望きしょうぼうを行う場所は、予科生たちが個人の自由で決められる。

 晴れになる日と雨になる日を比べると、大気を構成する游子の動きや、雲をつくる游子の色は明らかに異なった。それさえ見極められるのなら、どこだっていいのだった。


 果朶は、屋上を選んでいた。


 遮るものが少なくて、見晴らしもいいからだ。


 少女と出会ったのもそこだった。彼女は錘宮すいぐうの下女の子で、父親の顔を知らないのだと言った。本科に勤める師儒しじゅとだけ、母親から聞いたことがあるという。

 会ってみたくて夜の内に忍び込んだが、それらしき人物も見付からず、気落ちして帰ろうとしたところ迷って屋上に辿り着いたと、驚いている果朶に対して小声で語った。


『そう。苦労して入ったところ悪いけど、ここ、予科生の寮なんだよね。本科の塔は、禁苑きんえんの中。てか学院予科寮って、入り口の扁額へんがくに書いてなかった?』

 果朶がそう教えてやると、少女はあからさまに落ち込んだ。

『だって私、文字なんて読めないもの。ここが学院って聞いたから、きっと父さまもいるんだろうなって信じただけよ』


 まだ秋の初めだったが、少女の指にはあかぎれができていた。母親と同じく下働きをしていて、文字を覚える時間などないのだろう。

『父さま、私に会ったらがっかりするかも。だって、学院の師儒って、とっても賢い人なんでしょ? なのに、私は賢くないから……』


 果朶は咄嗟に黙り込んだ。

 果朶はその時、既に異邦いほうの天才という綽名あだなを得て久しかったが、少女の気持ちはよく分かった。


 雨になることを見破れない予科生もいる中で、その日の気温や風向きの変化に至るまで、正確な気象望を心掛けたのは。

 複雑な作りの游子であっても、難なく晶汽しょうきで再現できる腕前を身につけたのは。

 試験で出される程度の問題、果朶ほどの秀才が間違えるはずないよねと、どの予科生も口を揃えて褒めそやす優等生になったのは。


 鳥のように空を飛んで、異邦を臨むことを夢見ていたと同時に、自慢の子だと先生に思って欲しかったからだった。


『……俺で良ければ、文字くらい教えるけど。やる気があるなら、算学や史学だって』


 少女はぱちりと瞬きをした。

 なにを言われたか理解するのに、時間が要ったようだった。


『本当に?』

 数拍置いて、少女は顔を輝かせた。果朶がたじろいでしまったほどに、眩しくて、あどけない笑みだった。


『とっても嬉しい! やる気なんていっぱいあるもの。私、全部、全部知りたい。絶対に賢くなるから、私に全部教えてくれる?』


 実際、少女は聡明だった。それまで真っ新だった反動か、果朶が与える知識のすべてを、凄まじい勢いで吸収していった。

 一年が経つ頃には、果朶もむしろ面白がって、本科の師儒でも使いこなせる者は少ないと評判の公理を教え込んだりしたものだ。

 教える側の果朶は勿論、その公理を習得していた。


 三年ほどが経ったある日、ぱったりと来なくなったが。

 今頃、どうしているだろうか。


 不意にくいと袖を引かれて、果朶ははたと我に返った。


 月から落ちた佳人のごとき美貌を誇る、月季館げっきかんの女主人が、果朶の背後に立っていた。

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