4
歓楽街に勤める者は、どんなに詩歌が苦手であっても、周囲の娼婦が倶姫の詩を引用するので、自然と覚えるようになる。
「ほら、あったじゃない。あなたに一晩会えないだけで、まるで三月が経ったようだ、みたいな詩」
「ああ、あれね。
「そう、それ! いいわよ、……って、待って。その文字、ちょっと違うんじゃない?」
果朶は動じず、首を振った。
「そう? もしかして、普段はこっちの文字を使ってるとかじゃない? 二種類あるんだよ、この文字。意味は同じだから、どっち使っても大丈夫。異綴っていうんだけどさ」
淀みない説明に、雪は納得の表情を浮かべた。
「そうなのね、知らなかった。あたしこの前、そっちの文字で書いてた子に、間違ってるわよって言っちゃったかも」
勘違いだったって謝らないと、と呟いている。
手元に注がれる雪の視線は、果朶に既視感を運んできた。
かつて果朶は、一人の少女に読み書きを教えていた時期があった。
ともすれば
『教養は、お前の格を上げるものだ。私の子になったのだから、身に着けておかなければいけないよ』
果朶を引き取って間もない頃、
晴れになる日と雨になる日を比べると、大気を構成する游子の動きや、雲をつくる游子の色は明らかに異なった。それさえ見極められるのなら、どこだっていいのだった。
果朶は、屋上を選んでいた。
遮るものが少なくて、見晴らしもいいからだ。
少女と出会ったのもそこだった。彼女は
会ってみたくて夜の内に忍び込んだが、それらしき人物も見付からず、気落ちして帰ろうとしたところ迷って屋上に辿り着いたと、驚いている果朶に対して小声で語った。
『そう。苦労して入ったところ悪いけど、ここ、予科生の寮なんだよね。本科の塔は、
果朶がそう教えてやると、少女はあからさまに落ち込んだ。
『だって私、文字なんて読めないもの。ここが学院って聞いたから、きっと父さまもいるんだろうなって信じただけよ』
まだ秋の初めだったが、少女の指にはあかぎれができていた。母親と同じく下働きをしていて、文字を覚える時間などないのだろう。
『父さま、私に会ったらがっかりするかも。だって、学院の師儒って、とっても賢い人なんでしょ? なのに、私は賢くないから……』
果朶は咄嗟に黙り込んだ。
果朶はその時、既に
雨になることを見破れない予科生もいる中で、その日の気温や風向きの変化に至るまで、正確な気象望を心掛けたのは。
複雑な作りの游子であっても、難なく
試験で出される程度の問題、果朶ほどの秀才が間違えるはずないよねと、どの予科生も口を揃えて褒めそやす優等生になったのは。
鳥のように空を飛んで、異邦を臨むことを夢見ていたと同時に、自慢の子だと先生に思って欲しかったからだった。
『……俺で良ければ、文字くらい教えるけど。やる気があるなら、算学や史学だって』
少女はぱちりと瞬きをした。
なにを言われたか理解するのに、時間が要ったようだった。
『本当に?』
数拍置いて、少女は顔を輝かせた。果朶がたじろいでしまったほどに、眩しくて、あどけない笑みだった。
『とっても嬉しい! やる気なんていっぱいあるもの。私、全部、全部知りたい。絶対に賢くなるから、私に全部教えてくれる?』
実際、少女は聡明だった。それまで真っ新だった反動か、果朶が与える知識のすべてを、凄まじい勢いで吸収していった。
一年が経つ頃には、果朶もむしろ面白がって、本科の師儒でも使い
教える側の果朶は勿論、その公理を習得していた。
三年ほどが経ったある日、ぱったりと来なくなったが。
今頃、どうしているだろうか。
不意にくいと袖を引かれて、果朶ははたと我に返った。
月から落ちた佳人のごとき美貌を誇る、
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