「……えっ?」


 果朶かだは惚けた。


 硝子がらす玉を填め込んだような双眸で、しばらく果朶を見つめた緋否ひひは、炊事場の入り口を振り向いた。


「来てる。……あなたのこと、好きな子」

それだけ言うと、果朶の袖から手を離し、踵を返して去ってしまう。


 緋否とすれ違ったのは、簡素な麻の衣をまとった彗翅すいしだった。


 つい数時間ほど前も〈望淵ぼうえん〉で顔を合わせ、綺羅晶の受け渡しをしたばかりだが、一旦錘宮すいぐうに帰ったのかも知れない。手には、なにも持っていなかった。

「皆さん、おはようございます! 表に人がいなかったので、どうしようかと思っていたら、緋否さんが連れてきてくださいました。果朶さま、私をお嫁にしてください!」


 はきはきと感じよく挨拶をする彗翅に、雨禾うかがにっこり微笑んだ。


「おはよう、彗翅ちゃん。彗翅ちゃんを案内したなんて、今日の大姐だーじぇは、かなり体調がいいみたいだね」

 筆を置いたシュエホワが、しみじみと頷き合う。

「ね。良かったわ。ここ数ヶ月は、声も聞いてなかったから」

「彗翅ちゃん、本当に果朶が好きなのねぇ」

からかいと応援が入り混じった視線を受けて、彗翅は、恥じらうでもなく誇らしげに胸を張った。

「はい、大好きです! 果朶さまのお顔を見ると、幸せな気持ちになります。それで、目の前にいる内に、とにかく好きって伝えなきゃって張り切ってしまうんです」


 頬杖を付いた花が、そう言えばと垂れ気味の目を細めた。

メイ小姐しゃおじぇも、似たようなこと言ってたわ。小姐の場合は、贔屓にしてる舞台役者が相手だけど」


「ああ、確かに。舞台を見るととにかく幸せな気持ちになって、好きって言葉しか浮かんでこないの! って」

「あっ、そう、そうなんです! まさにそんな心境で!」

 女性陣が、俄かに盛り上がりを見せる。

 果朶はふと腑に落ちた。

「ああ、……舞台役者ね」


 納得の声を零すと、低い声音が存外に通ったのか、彗翅たちが会話を止めて振り返る。


 果朶は目元を緩めて微笑んだ。


 ここ数日、頭を悩ませていた問題が解決して、肩の荷が下りた気分だった。


「なんだ、よかった。要は、あんたが俺に言う『好き』とか『結婚して』って、現実の生活とは違う軸の感情だったってわけね」

 演技や嘘とは、また違う。それでも、今まで言い寄ってきた女性のように、切実さや生々しさを伴うものとは意味合いが違うらしい。

 彼女がしてきた求婚には、『心からの言葉』であることと、『実現を望んでいるわけではない』ことが両立している。


 雪と花は互いに顔を見合わせたが、彗翅は明るく微笑んだ。


「えっと、そうかも知れません!」

 廊下から衣擦れが聞こえてきて、小柄な娼婦が炊事場を覗く。

「良かった、雨禾! まだ帰ってなかったのね。煙草を買いに行きたいのよ、付いてきてくれる?」


 朝とは言っても、娼婦と見るや物影に連れ込みたがる無頼漢も少なくないのが紅灯廻廊こうとうかいろうだ。月季館の娼婦たちは、一人では出歩きたがらない。


 雪が圏椅いすから腰を浮かせた。


「あら、梅小姐。それってこの前話してくれた、泣きぼくろのある煙草売り?」

「そうそう。さっき下を歩いてるのを見掛けたわ。可愛いのよ、慣れないながらも一生懸命売ってる感じが。一緒に来る?」


 どうやら梅は、頻繁に贔屓の人物を作りがちな性格らしい。


「はいはい、それじゃあ皆で一緒に行く? 果朶、ちょっと出かけてくるね」

 娼婦たちと連れ立って、雨禾が出ていく。

 彼らを見送っていた果朶は、唇を真一文字に引き結んだ彗翅の視線が、自分に静かに注がれていたことに気付かなかった。


 誰もいなくなった炊事場で、果朶は彗翅に向き直った。


「……それで? なんの用があって来たの?」


 今朝も〈望淵〉で会っているのに、わざわざ月季館にもやって来たのだ。人が多い場所ではしづらい話があったのだろう。


 彗翅は身を乗り出した。

「実はですね。果朶さまに、見ていただきたいものがあるのです!」

 そう言って、折り畳まれた紙を一枚、嬉しそうに差し出してくる。


 広げてみると、現れたのは線画だった。

 羽を広げた蝶が一羽。紙面いっぱいに横たわっている。

 鱗粉りんぷんから成る柄は書き込まれておらず、代わりに、いくつもの数字やら特定の部分を拡大した図やらが挿し込まれていた。


「なに、これ」


 怪訝に眉をひそめた果朶に、彗翅は悪戯っぽい顔で言う。


「現段階の設計図です。空を飛ぶ道具の」

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