華々げげ果朶かだを振り向いた。


「しかし、果朶。我らが組合は逃げないが、揚げたては今しか食べられないのだ」


 慈々じじも首を縦に振った。

「今しか食べられないのだ。熱々のきな粉揚げ麵麭パンにほんのちょっとの岩塩を振って、生地の熱で溶けるのを待ってから、ぱくっといくのを想像してみるのだ。絶対に絶対に美味しいのだ」


 果朶は眉間に皺を寄せた。まったくもって、言葉巧みに人の胃を刺激してくれるではないか。


 足音は続いている。たったったっと、軽やかに鳴っている。


「……はあ、仕方がないな。それじゃあさっさと買っちゃって、食べながら組合に行こう。まあ、行儀は悪いけど。えぇとご主人、きな粉揚げ麵麭パン一個おいくら──……」


 ──どん、と。

 鈍い衝撃が身体に走った。


 咄嗟に。なにが起きたか、分からなかった。

 気付いた時には仰向けになっていて、温かくて重みのあるものを腹部に乗せた状態で、きな粉揚げ麵麭パン一個五銭ごせんと書かれたのぼりを真下から見上げていた。


「わっ、ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


 若い女の声がした。底抜けに明るい声だった。

 こちらを心配してくれていながら、すべての憂鬱をぱっと吹き飛ばしてしまいそうな、そんな朗らかな響きを秘めていた。


「大変、えぇと、お怪我とか──……」。


 女の声が不意に途切れる。

 ずきずき痛む腰を庇って、果朶かだはのろのろと身体を起こした。

 果朶の太ももに跨るような恰好で、一人の少女がぺたんと尻を付いていた。


 十六、七歳くらいだろうか。仔鹿を思わせるつぶらな瞳は、なにか信じられないものでも見たかのように、大きく開かれている。二つに分けられた黒髪は、左右の耳元でくるりと円く留まっていた。


 果朶は首を横に振った。

「や、大丈夫。むしろ俺が悪かった。通路の真ん中で立ち止まってたから、邪魔だったでしょ。怪我はない?」

 加速していた分、衝撃が強かったのは彼女の方であるはずだ。捻挫などしていないだろうかと、果朶は少女を覗き込む。


 彼女の顔が真っ赤になった。なにかを言いかけて唇を持ち上げて、けれども相応しい言葉が見つからなかったように、再び閉ざした。


 華々げげがぽんと手を打った。果朶が落とした小銭入れを拾った彼は、そこからちゃっかり十五銭を支払ったところだった。

「おお、これはお約束というやつなのだ。人情本や芝居などで、よく見るお決まりの展開なのだ」


 慈々じじも首を縦に振った。屋台の主人に揚げ麵麭を包んでもらったは良いものの、熱かったのか、長袍がいとうの袖を引っ張っててのひらを隠している。

「お決まりの展開なのだ。街角でぶつかり合った男女が、そのまま恋に落ちちゃうというやつなのだ」

「というやつなのだ」

 果朶はぎろりと二人を睨んだ。奢るつもりで取り出した小銭入れなので問題ないが、彼らの発言は少女に対して失礼過ぎる。


「やつなのだ、じゃないんだよ。そんなこと言われるお嬢さんの気持ちも考えてみなって。あんた悪いね、連れが変なこと言って──」

「……いいえ」


 震える声が耳に届いて、果朶は怪訝に振り返った。


 少女の双眸は潤んでいた。今にも泣きだしてしまいそうな黒い泉に、眉をひそめた己の顔が映っている。

 ふわりと清涼な白百合しらゆりが香った。


「いいえ。失礼なんかじゃありません。だって私、あなたのお嫁さんになりたくて」


 その場の誰もが動きを止めた。

 果朶はぱちりと瞬きをした。聞き間違いかと思ったのだ。夜勤明けで、頭や耳が上手く機能していないのかも知れない。

「ええと、ごめん。今なんて?」

 少女は息を吸い込んだ。白鳥のようにか細い首が仰け反って、果朶に向かって渾身の一言を繰り出した。


「あなたのお嫁さんになりたいんです! 私と結婚、して下さい!」



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