とりあえず。

 果朶かだは、深々と嘆息した。


 実のところ、初対面の女性からこのような台詞を言われるのは、果朶にとって珍しいことではない。

 流石に求婚は初めてだが、待ち伏せされて交際を迫られたり、お友達からでも良いから仲良くなりたいとつきまとわれたりしたことなら、数えるのさえ億劫になるほどだった。


 なにせ、果朶かだは美しい。絶世のというより以前に、この世のものとは思えない。

 猫のを思わせる吊り気味の双眸に、すっきりと高い鼻梁。薄くて形の良い唇。ほっそりした胴まわりは男らしさを欠いているが、人間離れした造形にそのような要素を加えても、かえって不釣り合いなだけだろう。

 色素の薄い肌と言い、灰色がかった瞳と言い、むしろ彼は、緻密に作られた雪人形ゆきにんぎょうのごとき儚さでもって、その価値を示していた。


 果朶かだは少女を押しのけた。

「はあ。なに、下らないこと言ってんの」


 彼女の細い腕を掴んで、強引に立ち上がらせる。その際にちらと見えた足首に腫れがないことを確認してから、敢えて不機嫌な表情を作ってみせた。

「有り得ないと思わない? 初対面の人間に結婚を申し込むなんて。常識的に考えて気持ち悪いよ。正直言って願い下げだね、そんな女」

 こういった手合いから徹底的に未練を削ぐには、やり過ぎなくらい手酷てひどく振るのが最適解だと、果朶はとっくに知っている。わざとらしく舌打ちまで付け加えて、華々げげ慈々じじを振り返った。

「ほら行くよ、揚げ麵麭パン買って気が済んだでしょ。これ以上面倒なことにならない内にさっさと帰るよ」


 華々と慈々は大人しく頷いた。この二人も、こういった場面は目撃し慣れている。

「分かったのだ。きな粉揚げ麵麭パンはとっても美味しかったのだ。ありがとうなのだ、主人」

「きっと、また来るのだ」

 揚げ麵麭屋台の若い主人は、目の前で繰り広げられた修羅場もどきに気まずそうな表情を見せつつも、おうと手を上げてみせる。


 呆然と立ちすくんでいた少女が、はっとしたように声を上げた。

「待って! 違う、違うの、私は──」


 果朶は立ち止まらなかった。細い廻廊かいろうへ素早く逃げ込む。

 慈々が差し出してくれた揚げ麵麭は、微かにほろ苦かった。



『六月二十八日、学院の気象望きしょうぼうによりますと天気は晴れ。しかし、夕方から夜にかけては、通り雨の可能性があります。本日、錘宮すいぐうでは、禁苑きんえんから出荷される農作物の価格改定に関する会議が開かれ──』


 雑踏を掠めながら、白銀はくぎんいろの小さな蝶がひらりひらりと飛んでいく。艶出しを施した貝殻に似た羽は、灯篭とうろうの光を浴びる度にとろりと艶めく。

 天涯山てんがいさんの麓にある行政機関、錘宮から降りてきた音信蝶おんしんちょうだ。


『──茶葉、砂糖、雑穀など、一部の品目で値上げが決定されました。禁苑の管理を担っている賢裔けんえい三家さんけとの間で、近日中に調整が行われる見込みです』


 音信蝶は男とも女とも判別し難い静かな声で、その日の出来事を告げてまわる。


 果朶の正面に座っていた若い男が、にっこりと微笑んだ。

「果朶の言ってた通りだね。相変わらず、気象望がよく当たる。学院の師儒しじゅ方が一目置いてたのにも頷けるよ」


 柔らかい口調だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る