これと言った問題もなく湖門こもんを抜けると、沓底くつぞこに伝わる感触が変化した。踏みしめるものが、荒野のざらついた泥土から、廻廊かいろうの滑らかな板になったのだ。


 立体都市では、すべてが木組みだ。公共の道である廻廊も、家も。高さが異なる廻廊を繋いでいる階段も。飴色の礎柱そちゅうを岩盤に打ち込んで、足場となる板を渡した、高床式の構造で造られている。


 荷車同士がすれ違ってもなおゆとりが残る廻廊は、左手に民家がずらりと並んでいた。


 少し先の民家の窓から、慌ただしく鴉が飛び立つ。その民家は、外れた窓枠が未だに修繕を待ち続けているせいで、小腹を空かせた鳥たちが自由な出入りを覚えたらしい。

 かと思えば別の民家は、全員が横になるには屋内が狭いのか、玄関扉を開け放って頭や足をはみ出させた状態で睡眠を摂っている。


 斎湖さいこに近い下層域かそういきは、たいてい家賃が安かった。風向きによっては、綺羅きらじゅの花粉がすぐそばまで来るからだ。死に至るほどの害はないが、呼吸器官が傷付くため、ある程度の所得があれば敢えて住みたがる場所でもない。


 左手はひらけていて、先ほどの荒野や、晴れわたった朝空が臨めた。

 

 果朶かだはふと目を細めた。揚げものの甘い香りが鼻腔を衝いた。

 言わずもがな華々げげ慈々じじは、これに浮き立つ。


「美味しいものの気配がするのだ」

「気配がするのだ。一つ上の廻廊から漂ってきている気がするのだ」

「気がするのだ。是非とも見に行ってみたいのだ」

「みたいのだ」

 言うや否や、果朶に制止の隙を与えずに駆け去ってしまう。


 民家の間に挟まるようにして延びている階段を登っていく華々と慈々を追いながら、果朶は軽く嘆息した。流石は育ち盛りの十三歳。驚くほど足が速い。


 人が一人通るのがやっとな細さの階段を登りきると、その先の廻廊にはずらりと屋台が並んでいた。

 もう数刻もしない内に起き出してくる近隣の住民のために、店主たちが朝食の支度を進めている。焼餅シャオピン包子パオズ鮮魚湯シェンユータン香味粥こうみがゆ温麺線おんめんせん。食欲をそそる文字が記された旗がいくつも、立ち込める湯気の中で揺れている。


 一抱えもある鉄鍋で、香ばしい胡麻油がぱちぱちと跳ねている屋台があった。若い主人が、背後に積まれた木箱から丸い生地を取り出して、ひょいひょいと鍋の中に放り込む。

 とたん、じゅわっと油が鳴った。一、二分ほど費やしてじっくり生地を揚げた主人は、また別の木箱へと素早く箸で移していく。

 そこにはきな粉が敷かれていて、胡麻油の風味を損なわぬ程度に甘い香りを立てながら、白い生地に満遍まんべんなく絡み付くのだ。

 無表情なりに瞳の奥を輝かせて見入っている華々と慈々に、屋台の主人は得意げに胸を反らした。


「どうだい? うちのきな粉揚げ麵麭パンは絶品だぜ。朝食にはちょいと早いが、味見でもしていくかい? 特に出来立てのやつなんて、もう夢にまで出てくるくらいの美味さだぜ」


 魅力的な誘いを聞いて、華々と慈々はごくりと唾を飲み込んだ。

 果朶は二人に追い付くと、彼らの襟首をむんずと掴む。


「なに心惹かれちゃってんの? てかうろちょろしないでくれる? 大事な荷物背負ってること忘れたの?」


 高価な資源である綺羅晶きらしょうを抱えたまま、ふらふらと寄り道するのは宜しくない。


 どこからか、軽快な足音が聞こえてきた。たったったっと、身軽な者が通路を蹴って走っている時の音だった。それが、徐々に近付いてくる。

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