38


 家の邸は、しんと静まり返っていた。

 時折、使用人がちらほらと廊下のはしに覗くのみだ。当主であるせいほうや、こうが錘宮にいることは既に確認済みだった。


 先触れもなくふらりと現れ、先日訪れた際に忘れ物をしてしまったから探したいと言ったを、娥家の侍女はあっさり通した。

 彼女は、果朶が夜行を訪ねた折、先導役を務めた侍女だった。

 当主の相談役と親しげだった果朶のことを覚えていたし、なによりも、果朶の顔を気に入っているらしき彼女は、断ることさえ思い付かないようだった。


 水滴を吸って重たくなった裾を引き摺り、夜行の部屋に向かいながら、果朶は、自分は一体どうすることを望んでいるのだろう、と心の内に問い掛けた。

 すいたちに先んじて、証拠品となるものを見つけ出し、それでもって罪を糾弾したいわけではない。

 なにか、確固たる目的を持ってきたわけではない。


 ただ単に、この目で確かめなければ落ち着かないだけなのだろう。

 ──〈えんたんこう〉を調合したのが、本当に先生なのか。


 この惨禍は、真に先生の仕業であるのか。


 彗翅は、煙草売りのしゅが住んでいた家には、布団が一式あるきりだったと言っていた。

〈烟単黄〉の材料や、使われていた道具類は、別のところにあるはずなのだ。烟単黄を調合したのが先生ならば、この邸のどこかにある可能性が高かった。


 それどころか、〈烟単黄〉そのものだってあるかも知れない。


 こくれいに確認するより以前から、果朶は、は先生のところに立ち寄ったのかも知れないと疑っていた。

せいらんてい〉で慈々の身体を清めた時、彼のうわぎからは血に混ざって、乾いた木片を思わせる穏やかな香りがほんの僅かにしていたのだ。

 ──どこまでも懐かしい、先生の移り香だ。


 慈々のがいそうしょうの進行は、あまりにも早過ぎた。

 ぼうの分析によるならば、〈烟単黄〉に配合されたがんそうたんこうしょうの分化を促進し、身体を構成するゆうたちの破壊を早めるのだという。


 咒豆が扱っていた〈烟単黄〉より、彼岸草の配合量を増やした烟単黄を作りでもしない限り、あのように早期から重症となるのはあり得ない。


 ざあざあと降りしきる雨の音をどこか遠くに聞きながら、果朶は、かつて夜行と談笑した四階の部屋の前に辿り着いた。


 奥に設けられた丸窓から、重く垂れ込める紺色の雲が覗いている。

 中央の花瓶には変わらずすすきが挿さっていたが、とっくに乾いて枯れていた。


 薄ら闇が沈殿したその部屋を丹念に一周し、果朶は、あることに気が付いた。

 書棚が置かれた一角だけ、その背後にあるものが壁ではなく、幕なのだ。


 品位を保っているためには、かいの知識だけではなく教養も大切なのだ、と。

 かつて果朶にそう言い聞かせた先生の書棚には、句集や史書が並んでいる。

 その後ろには、壁と同色の皺ひとつない幕が張られていた。


「──……」

 書棚の中身を一つ一つ抜き取りながら、果朶は何度か、今ならまだ『知らないでいる』ことを選べるのだと、自らに対するそそのかしを試みた。

〈奇才〉夜行は、どこまでも高潔な人間だ。厳格で、公平で、慈悲深い。人の命を奪うような企みには荷担しない人間だと、そう思い続けていることができる。


 ──けれどももう、限界だった。

〈静嵐亭〉のしんだいには、流れるべきではなかった血が染み込んだ。

 げっかんの娼婦たちには、死ななければならない理由などなかったのだ。


 空になった書棚を動かし、果朶は、幕をゆっくり持ち上げた。

 ──続きの間が、そこにあった。


 足を踏み入れた瞬間、果朶が真っ先に思ったのは、まるで本科塔のようだ、ということだ。

 それほどに、道具類が揃っている。


 せっや天秤、粉末を入れるための小皿にげん

 手前の卓には、加工される前の薬草に混じって、見覚えのあるものが乗っていた。 

 茶色い、出涸らしの茶葉に似た刻み煙草だ。


 一つ摘まんで顔の前に持っていけば、煮詰めた果実を思わせる、甘い香りが鼻腔を衝く。

 果朶は、くしゃりと顔を歪めた。


 何故、と思った。

 悪い夢でも見ている気分だった。

 身体の内も眺める世界も、どの夜よりも昏い闇でとっぷり満たされてしまったかのようだった。

「……──先生。どうして──……」


 呻いた瞬間、強い衝撃が背中に走る。

 鈍器で殴打されたかのような圧迫感に、果朶は、堪え切れずその場にどさりと倒れ込んだ。


 身を捩って振り向けば、だぶついたうわぎに身を包んだ影がある。

 目深にかぶった頭巾からは、見覚えのある泣きぼくが覗いていた。


「よぅ。久しぶりだな、旦那」

 この間の借りは耳を揃えて返してもらうぜ、と。


 嘲笑まじりのその声に、果朶は、しまったと歯噛みする。

 しゅのことを失念していた。まさか、娥家にいるとは思わなかったのだ。


 なんとか立ち上がろうとした刹那、咒豆に脳天を蹴り飛ばされて、果朶の意識はふつりと途切れた。




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