第五章 蒼天婚儀




 その時覚えた高揚を、は、今でも思い出せる。

 月星の明かりが美しい夜だった。


 りんどう色をした夜空の半ばに、皓々と光る満月が昇っていた。

 宝石を砕いたような星たちは、常より一層冴え冴えとして、椿やざんが咲き始めたえんや、収穫期を終えたきんえんの耕作地を照らしていた。


 夜にしてはあまりにも明るくて、だから、眠れなかったのかも知れない。


 予科課程の三年目。

 地歴九百十三年。


 十五歳だった雨禾は、日付が変わる頃になっても、妙に冴えた頭のまま、学院寮のしんだいに横たわっていた。

 確かに身体は疲れていたが、今すぐ抜き打ちで試験をすると言われても、ある程度は解けそうな気がした。

 枕元に落ちた格子窓の月影を手持ち無沙汰に見つめていると、不意に、きぃ……と音がした。

 誰かが、どこかの部屋の扉を慎重に開けたのだ。


 雨禾が息をひそめていると、その誰かは、ひっそりと移動を始めたようだった。

 くつを脱ぎ、足音が立たないよう気を遣っているらしいが、聴覚が鋭敏な雨禾には分かる。

 跳ね起きて、そっと廊下を覗いてみれば、夜の闇にも鮮やかな金髪が突き当たりを右に曲がったところだった。


「……?」


 雨禾は、少なからず訝しんだ。

 消灯時間は過ぎているし、果朶は明朝、しょうぼうの当番なのに。

 彼がさっき曲がった先には、予科の講義棟しかない。


 ──付いて行こうと決めたのは、ほんの些細な好奇心。

 そして、このまま部屋にいても、どうせ眠ることはできないと思ったからだ。


 つま先立ちで追い掛けると、案の定、果朶は、講義棟へと続く渡り廊下に差し掛かったところだった。


「なにしてるの? 果朶」

 隣に並んで尋ねると、学年二位の天才は、驚いたふうもなく肩を竦める。

 大気を構成するゆうの動きで、雨禾が付いてきていることは把握していたのだろう。

「別に? ちょっと試したいことがあっただけ」


 素っ気ない言い草だ。

 彼の細い指先には、月明かりを弾いて銀に煌めく、優美な鍵が挟まれている。

 どこかで見たような、としばし考え、答えが分かった瞬間に、雨禾は思わずぎょっとした。

「ちょっと待って、果朶。その鍵、まさか」

「第三準備室の鍵だけど?」


 授業の片づけを手伝った後、うっかり返し忘れてたんだよね、と悪びれもせず答えた果朶に、雨禾は思わず肩を落とした。

 もしそうならば、少しくらい慌てていて然るべきだ。


 第三準備室は、しょうを編み出すための道具類を保管しておくための部屋だった。

 しょうのほか、綺羅晶を煮沸する容器類、予科生たちのためのへんごう、作り溜めておいた晶汽など、それなりに貴重なものが収められている。

 鍵の管理は、本来、じゅたちに委ねられる。

 こんな時間に果朶が所有していたことが明らかになれば、あらぬ誤解を受けかねない。


 焦りを覚える雨禾を他所に、果朶は、すたすたと講義棟の廊下を歩き続けた。

 昼間であれば、多くの予科生や師儒たちが行き来する五階建ての木造建築は、今はただ静まり返って月明かりが差し込むだけだ。

 まるで、知らない場所にも見えた。


 第三準備室の扉を開いた果朶は、迷いのない手付きで壁の棚から編匣を取り出す。それどころか卓上に、晶汽の入った小瓶まで並べ始めた。

 雨禾は、いよいよ狼狽えた。



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