。流石にまずいんじゃないの? 本科三類のじゅたちだって、しょうの割り当て個数を巡って揉めてるって聞くよ。厳重注意じゃ済まされない」


 最早見るのも嫌になるほど、たち予科生が日々の演習で用いるしょうは、けれども決して際限なく湧いてくるものではない。綺羅晶掘りたちが、さいの泥から一つ一つ綺羅晶を拾い上げるところから始まる。予科の規則にも、晶汽の取り扱いに関する項がある。


 怖気付いた様子もなく、果朶は、せっでひょいと晶汽を摘まんだ。

「知ってるよ。でも、試してみたいんだよね。今日、遊子の構造から温度を読み解くための講義を聞いてた時に、ちょっと思い付いた構造式があってさ。上手くいけば、それなりに軽い物体だったら、自力で空を飛べるようになるかも知れない」


 事もなげに話す果朶に、雨禾は、正直呆れてしまった。

 物体の自力飛行など、空を飛ぶことに憧れた師儒たちが、まず真っ先に試みるものだ。


『試みる』だけの余地がある。

 それはすなわち、今までに誰一人として成功しなかったことの証左である。


 いくら優秀であるとは言え、予科課程の修了まであと三年も残している今の果朶が、成し遂げられるとは思えない。


 けれども果朶は、ごく自然体だった。

 気負いもなければてらいもない。まるで、目に見えない力に操られているかのように鑷子を手に取り、次々晶汽を編んでいく。

 そのさまを見ていると、雨禾にはもう、なにを言う気も起きなかった。


 ごく細かな晶汽の粒は、まばゆく輝く月星に照らされて、透明な小瓶の中で、気高くも柔らかい乳白色に煌めいている。

 果朶の横顔もまた、げっちょうせきを削り出したがごとく、冴え冴えと研ぎ澄まされていた。

 長い睫毛に縁取られた双眸も、ま白い肌に流れ落ちる金の髪も、まるでこの世のものではないかに見える。

 それでいて彼は同時に、世界のすべてを代理すべく生まれてきたようでもあった。


 ──今、彼の手を妨げてはならない。

 それは、ほとんど直感だった。


 雨禾が息をひそめて見守る前で、果朶は、脇目も降らずへんごうの内に晶汽を編み続けた。

 夜は徐々に更けていき、月が天涯山の西へと落ちる。空は白々明るくなり、やがて、鳥のさえずりが聞こえ始めた。


 雨禾はついに待ちくたびれて、果朶の隣でゆらゆらと揺れ出した。抜き打ち試験があっても解くことができる、と思っていたのが嘘のようだ。

 かくりと首が落ちたその瞬間、不意に、なにかが羽ばたく音がした。


「──……?」

 雨禾は、ゆっくり顔を上げた。


 硝子窓の向こう側を、二、三羽の雀が横切っていく。あれかと思い、すぐさまに考え直した。


 違う。先ほどの気配は、もっと近いところにあった。

 大気を形づくる游子を揺らし、己の耳のすぐ傍を、ふわりと過ぎっていったのだ。


 室内に視線を巡らせ、雨禾は大きく息を呑んだ。



 一羽の蝶が、飛んでいた。



 透けるほどに薄い紙で折って作った、偽物の小さな蝶だ。

 それが、生きているものと遜色ないやり方で、はねを動かし飛んでいる。

 桔梗色の朝闇が満ちる中を、ふわりふわりと軽やかに泳いでいる。


 雨禾は半ば放心し、あっちに行ったりこっちに来たりを繰り返す紙の蝶を、ぼんやりと目で追った。

 夢だろうか、とまず思った。

 自分は果朶を待ちくたびれて、知らない内に眠りこけてしまっていたのかも知れない。

 そうでなければ、紙で作られた蝶があれほど自在に、空を飛ぶなど有り得ない。


 しかし何度頬を抓ろうとも、目の前の光景は変わらなかった。

 それを確認した直後、雨禾の胸には、感動とも興奮とも付かない感情がじわじわと湧き起こった。


 ──これは、紛れもなく現実だ。

『有り得なかったはずの現実』だ。

 この世の摂理が、否、摂理だと信じられていたものが、今日という日を境にして、まさに塗り替えられたのだ。


「果朶──……」

 振り返って呼び掛けて、けれども雨禾は続く言葉を呑み込んだ。

 卓に突っ伏し、果朶は、静かな寝息を立てている。思い描いていた構造式を晶汽へと昇華し終えて、集中と緊張が解けたのかも知れない。


 意図せず、雨禾の目元に笑みが浮かんだ。果朶の肩からずり落ちかかっていたがいとうを直してやりつつ、ふと悟る。


 この友人は、きっと師儒になるだろう。

 多くの不可能を可能にして、錘の国の新たな時代を、切り拓いていくに違いない。


 天涯山から昇る火球の眩しさに目を眇め、雨禾はしみじみその予感を噛み締めた。



 しとしとと、うすぎぬで覆うような雨音がする。

 ゆらゆらと、身体が揺れる。


 果朶は、微かに顔をしかめた。

 やけに頭が重かった。


『十二月三日──……、学院のしょうぼうに依りますと、天気は雨。錘宮は、がいそうしょうの治療拠点として、新たに三十箇所の公営診療所を設けました。本科二類は一類、三類と連携し、特効薬の安定的な供給に向けた体制を──……』



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