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「
最早見るのも嫌になるほど、
怖気付いた様子もなく、果朶は、
「知ってるよ。でも、試してみたいんだよね。今日、遊子の構造から温度を読み解くための講義を聞いてた時に、ちょっと思い付いた構造式があってさ。上手くいけば、それなりに軽い物体だったら、自力で空を飛べるようになるかも知れない」
事もなげに話す果朶に、雨禾は、正直呆れてしまった。
物体の自力飛行など、空を飛ぶことに憧れた師儒たちが、まず真っ先に試みるものだ。
『試みる』だけの余地がある。
それはすなわち、今までに誰一人として成功しなかったことの証左である。
いくら優秀であるとは言え、予科課程の修了まであと三年も残している今の果朶が、成し遂げられるとは思えない。
けれども果朶は、ごく自然体だった。
気負いもなければ
そのさまを見ていると、雨禾にはもう、なにを言う気も起きなかった。
ごく細かな晶汽の粒は、まばゆく輝く月星に照らされて、透明な小瓶の中で、気高くも柔らかい乳白色に煌めいている。
果朶の横顔もまた、
長い睫毛に縁取られた双眸も、ま白い肌に流れ落ちる金の髪も、まるでこの世のものではないかに見える。
それでいて彼は同時に、世界のすべてを代理すべく生まれてきたようでもあった。
──今、彼の手を妨げてはならない。
それは、ほとんど直感だった。
雨禾が息をひそめて見守る前で、果朶は、脇目も降らず
夜は徐々に更けていき、月が天涯山の西へと落ちる。空は白々明るくなり、やがて、鳥のさえずりが聞こえ始めた。
雨禾はついに待ちくたびれて、果朶の隣でゆらゆらと揺れ出した。抜き打ち試験があっても解くことができる、と思っていたのが嘘のようだ。
かくりと首が落ちたその瞬間、不意に、なにかが羽ばたく音がした。
「──……?」
雨禾は、ゆっくり顔を上げた。
硝子窓の向こう側を、二、三羽の雀が横切っていく。あれかと思い、すぐさまに考え直した。
違う。先ほどの気配は、もっと近いところにあった。
大気を形づくる游子を揺らし、己の耳のすぐ傍を、ふわりと過ぎっていったのだ。
室内に視線を巡らせ、雨禾は大きく息を呑んだ。
一羽の蝶が、飛んでいた。
透けるほどに薄い紙で折って作った、偽物の小さな蝶だ。
それが、生きているものと遜色ないやり方で、
桔梗色の朝闇が満ちる中を、ふわりふわりと軽やかに泳いでいる。
雨禾は半ば放心し、あっちに行ったりこっちに来たりを繰り返す紙の蝶を、ぼんやりと目で追った。
夢だろうか、とまず思った。
自分は果朶を待ちくたびれて、知らない内に眠りこけてしまっていたのかも知れない。
そうでなければ、紙で作られた蝶があれほど自在に、空を飛ぶなど有り得ない。
しかし何度頬を抓ろうとも、目の前の光景は変わらなかった。
それを確認した直後、雨禾の胸には、感動とも興奮とも付かない感情がじわじわと湧き起こった。
──これは、紛れもなく現実だ。
『有り得なかったはずの現実』だ。
この世の摂理が、否、摂理だと信じられていたものが、今日という日を境にして、まさに塗り替えられたのだ。
「果朶──……」
振り返って呼び掛けて、けれども雨禾は続く言葉を呑み込んだ。
卓に突っ伏し、果朶は、静かな寝息を立てている。思い描いていた構造式を晶汽へと昇華し終えて、集中と緊張が解けたのかも知れない。
意図せず、雨禾の目元に笑みが浮かんだ。果朶の肩からずり落ちかかっていた
この友人は、きっと師儒になるだろう。
多くの不可能を可能にして、錘の国の新たな時代を、切り拓いていくに違いない。
天涯山から昇る火球の眩しさに目を眇め、雨禾はしみじみその予感を噛み締めた。
◇
しとしとと、
ゆらゆらと、身体が揺れる。
果朶は、微かに顔をしかめた。
やけに頭が重かった。
『十二月三日──……、学院の
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