おんしんちょうの、男とも女ともつかぬ声をどこか遠くに聞きながら、はそろりと上体を起こす。

 そしてすぐさま、再び背後に倒れ込んだ。


「は──……」

 ありとあらゆる筋肉が、ひどく痺れて思うように動かせない。

 足腰に力を込めても、それが保つのは一瞬だけで、すぐさま霧散してしまう。


 視界には、白っぽい布張りの天井が映っていた。メイランかいろうの自宅でも、地下室の片隅に設けられた仮眠用の布団でもない。

 ここは一体どこだろうと記憶を探って、果朶はようやく、家の邸で意識を失ったことを思い出した。

 ……呻き声が、零れ出た。

「……──先生」

 未だに、信じがたかった。


 娥家で目にした光景が、代わる代わる脳裏を過ぎって消えていく。

 ──書棚の裏に隠されていた、本科と見紛う続きの間。

 ──薬草や、調薬の道具類に混ざって保管されていた、〈えんたんこう〉。

 そしてそこに現れて、躊躇なく襲い掛かってきた、泣きぼくのある煙草売りこと、しゅ──……


 じくじくと、劇薬でも沁み込まされたかのように胸が痛んだ。

 十六年前、てんがいさんの木陰にうずくまっていた果朶の前に、差し出された掌は温かくて大きかった。

 同じその手が、罪なき人々の命を奪う日がくるなんて。

 いっそ、夢だと言われた方が納得できる。


「ああ、果朶。ようやく意識が戻ったのだね。気分はどうだ?」


 馴染み深い穏やかな声が不意に聞こえて、果朶ははたと我に返った。……まさか、傍にいたとは思わなかった。

 感覚に乏しい上体でなんとか寝返りを打ってみれば、すぐ横に、ゆったりと足を組んで腰掛けている先生の姿がある。

 艶やかな銀髪が、黒いうわぎに冴え冴えと映えていた。


 応えに窮している果朶に、こうはくすりと微笑んだ。

「無理に話さずとも構わない。今のお前は、ものを言うのも億劫だろう? 私がお前に打ったのは、強力な麻酔薬だ。顔から足に至るまで、全身の筋力を著しく低下させ、麻痺させる。しばらくは指先の一本すら、持ち上げるのに苦労するに違いない」

 その台詞に、果朶は束の間、目を閉じた。


 ──この人は、永久に自分の味方だと思っていた。

 ──すいにおける果朶の故郷で、拠り所であると思っていた。

 ここ最近、すいと話す中で、可能性として考えたことがないわけではなかった。

 それでも果朶は、心のどこかで、夜行が己を害するはずがないと思っていたのだ。


 泣きたい心地で、果朶は再び、目を開けた。

「……これは、どういう状況ですか? 俺は今、どこに連れて行かれているんです」


 頭を切り替えなければならなかった。

 これ以上の消沈や狼狽は、後回しだ。


 すべては、生き延びられてこそ。

 この場を切り抜けて初めて、許される感情だった。


 体勢を変えた際、果朶は、ここが狭いしょうどうしゃの内であると悟っていた。

 窓には目張りの布が張られ、外の景色は望めない。伝わってくる振動から、恐らくは下っているのだろうと察することができるのみだ。


「それを知って何になる? 言っておこう、助けを求める行為は無駄だと。この駆動車はしゅと言って、せいほうさまが買い受けた凶手が御している。大声を出したとて、変わらず走り続けるのみだ」

 果朶に注がれる夜行の眼差しは、変わらず慈愛に満ちている。


 駆動車が止まろうが止まるまいが、こうも麻痺した肢体では、逃げ出せるわけがない。

 今の果朶にできるのは、事実の整理と確認くらいだ。

「この間、俺を殺そうとしたのは、先生でしたか。あの時は、雨禾がいなければ死ぬところでした」


 手始めに一つ話題を振った果朶に、ああ、と夜行は目を眇めた。

 悪びれる気配もなく、あっさりと首肯する。

「あれは、痛い失敗だった。強盗の仕業に見せかけてお前を始末することができる、丁度いい機会だったのだがね。しかもその後、お前は行方を眩ませた。まったく、どれほどほぞを噛んだことか──……だからこそ先日、お前が娥家に現れて、咒豆に捕らえられたと聞いた時には驚いたよ」


 夜行が言った『先日』という語から察するに、どうやら果朶が娥家で咒豆に出くわした日から、丸一日が経過しているらしかった。

 そう言えば先ほどの音信蝶は、今日が十二月の三日だと言っていた気がする。


「すぐに手を下そうかとも思ったが、がいそうしょうの特効薬が流通し始め、治安も回復しつつある。それに、お前に協力者がいる可能性も否定できなかった。様子見がてら、私の可愛い養い子を、最期を迎えるのに最も相応しい場所に運んでやろうと思ってね」


 果朶は、彗翅が付けてくれた護衛を錘宮に置いてきたことを心底悔いた。

 もしも彼らを娥家の前に待たせておけば、なにかが違っていたかも知れないのに。


 娥家を出てから今に至るまでの間に、この駆動車の行く手を阻む者がいないことから、夜行はとっくに果朶がひどく無防備な状態で飛んで火に入ったのだと察しが付いているはずだった。


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