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 遠ざかっていくすいの背を、は、追いかけることはしなかった。


 一等書記官である彼女はこのまま、対応に追われることになるだろう。

 付いて行っても仕方がないし、それに、果朶と彗翅の間にできてしまったわだかまりは、まだ解けきってはいない。

 気を抜くと、気まずい沈黙がすぐさまに落ちるのだ。


 地下室に戻ってると言い置いて、果朶は詰所を後にした。ぼうたちなら、果朶たちが留守の間に起こったことを把握しているはずだ。

 第三書庫へと足を向け、しかし果朶は、実際に地下室に下りることはしなかった。

 森の木々のように佇んでいる書棚の間を通り抜け、古びた紙と墨の香りを背後にし、第三書庫の更に向こう、十八きんもんに辿り着く。


 ひっきりなしに行き来するじゅや官吏は、果朶を気に留める気配もなかった。

 木の箱が乗った荷車を押しながら、何人もの師儒たちが果朶の傍らを通り過ぎる。


「やっぱり、〈奇才〉はどこまでも奇才だなぁ。家の相談役となられてから二類にいる時間はめっきり減ったのに、あっさり特効薬を開発するなんて」

「あの才能、本当にすさまじいよ……。元々は、貧しい平民の生まれだったんだろ? 学院予科に入学するにあたっては、師儒の才能を見込んだ誰かが、授業料の援助を申し出たんだっけ」

「金持ちの気紛れってやつだよな。それがなけりゃ、あれほどの〈奇才〉も存在し得なかったって思うと、逆に末恐ろしいよなぁ」


 取り留めもなく交わされる会話を捉えて、果朶は、微かに目を眇めた。

 もしかしてと思っていたが、やはり、がいそうしょうの特効薬を開発したのは先生であるらしい。


 禁門の貫通路トンネルを通り抜けると、垂れ込める雲の向こうに、黒い影のようになってそびえたつ天涯山から、無数の雪粒が飛んでくる。

 荒天の下、果朶は、禁苑を横切って三類塔へと向かった。


 扉を開けば、二類を手伝うために出払っている師儒たちが多いのか、常より随分ひっそりしている。

 ひょっとすると『彼』も不在かも知れないと思ったが、四階の奥の研究室にはぼんやり明かりがついていた。


「どうした」

 そう言って尋ねたのは、ただ一人、部屋に残って資料を繰っていたこくれいだ。


 氷像を思わせる顔貌には、相も変わらず何の感情も浮かんではいない。

 しかし、僅かばかり睫毛を揺らすと、或令はもう一言付け加えた。

「顔色が、悪い」


 果朶はふと、微笑んだ。

 そう言えばあの時も、彼はそれを伝えたかっただけなのかも知れない、とようやく思い至ることができた。


「そう? まぁ、寝不足だしね。ていうか、訊きたいことがあるんだけど」

 平静を装って、果朶は、乾いた喉から声を絞った。

 今、の訃報を伝える気にはならなかった。


 内弟子にして欲しいとこちらから頼んだ手前、不誠実であるのは承知の上だが、どんな顔で告げればいいのか分からなかった。

 それになにより、取り急ぎ確認しなければならない事柄があったのだ。


「あのさ、慈々のことなんだけど。下層域の状態が心配だからって、一週間くらい前にあんたのところを出たんだよね? その直前に、どこかに寄ってくみたいなこと言ってなかった?」


 果朶の問いに、或令はしばらく考え込む素振りを見せて、ややあって首を振った。

「私には、分からない。気になるのであれば、漓師儒に聞くといいだろう。下層域に帰る前、彼が泊まっていたのはめい家の邸ではない。娥家の──……漓師儒のところから、下層域に戻っている」


 刹那、果朶は息を詰めた。

 やはり、という思いと、まさか、という思いが、次々胸に去来した。


 淡々と、或令は続ける。

「漓師儒は、慈々を高く評価していた。是非とも自分も指導したいと申し出があったので、私は、慈々を漓師儒のところに向かわせた。娥家の邸で、慈々は、下層域の惨状について耳にする機会があったらしい。それで、大急ぎで下層域に帰ったと漓師儒から連絡を受けた。そろそろ、一週間近く経つ。妹に会ったたら、慈々のことを確認しようと思っていたところだ」


 果朶は、くしゃりと顔を歪めた。


 ……──その情報だけで、十分だった。



 雨になるのは珍しい。

 一ヶ月に二日も降れば良いほうだ。


 けれどもその日は、近年稀なほどの荒天だった。

 昼過ぎに降り始めたみぞれは、やああって雪に変わり、やがてたらいを引っ繰り返したような土砂降りの大雨になった後、また霙や雪になることを繰り返した。


 遠雷さえ、聞こえていた。


 風にあおられた雨粒が、娥家の外階段を登っていく果朶のくつうわぎの裾を、容赦なく湿らせる。

 果朶は額に手をかざし、夕闇が下り始めた錘の空を一人見上げた。


 己の顔貌に、いい感情を抱いたことはさほどない。


 それでも今は、良かったのかも知れないと少し思えた。

 果朶が、ここに入り込むことができたのは、美しいとよく言われるこの見た目のお陰でもあるのだから。


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