37
遠ざかっていく
一等書記官である彼女はこのまま、対応に追われることになるだろう。
付いて行っても仕方がないし、それに、果朶と彗翅の間にできてしまったわだかまりは、まだ解けきってはいない。
気を抜くと、気まずい沈黙がすぐさまに落ちるのだ。
地下室に戻ってると言い置いて、果朶は詰所を後にした。
第三書庫へと足を向け、しかし果朶は、実際に地下室に下りることはしなかった。
森の木々のように佇んでいる書棚の間を通り抜け、古びた紙と墨の香りを背後にし、第三書庫の更に向こう、十八
ひっきりなしに行き来する
木の箱が乗った荷車を押しながら、何人もの師儒たちが果朶の傍らを通り過ぎる。
「やっぱり、〈奇才〉はどこまでも奇才だなぁ。
「あの才能、本当にすさまじいよ……。元々は、貧しい平民の生まれだったんだろ? 学院予科に入学するにあたっては、
「金持ちの気紛れってやつだよな。それがなけりゃ、あれほどの〈奇才〉も存在し得なかったって思うと、逆に末恐ろしいよなぁ」
取り留めもなく交わされる会話を捉えて、果朶は、微かに目を眇めた。
もしかしてと思っていたが、やはり、
禁門の
荒天の下、果朶は、禁苑を横切って三類塔へと向かった。
扉を開けば、二類を手伝うために出払っている師儒たちが多いのか、常より随分ひっそりしている。
ひょっとすると『彼』も不在かも知れないと思ったが、四階の奥の研究室にはぼんやり明かりがついていた。
「どうした」
そう言って尋ねたのは、ただ一人、部屋に残って資料を繰っていた
氷像を思わせる顔貌には、相も変わらず何の感情も浮かんではいない。
しかし、僅かばかり睫毛を揺らすと、或令はもう一言付け加えた。
「顔色が、悪い」
果朶はふと、微笑んだ。
そう言えばあの時も、彼はそれを伝えたかっただけなのかも知れない、とようやく思い至ることができた。
「そう? まぁ、寝不足だしね。ていうか、訊きたいことがあるんだけど」
平静を装って、果朶は、乾いた喉から声を絞った。
今、
内弟子にして欲しいとこちらから頼んだ手前、不誠実であるのは承知の上だが、どんな顔で告げればいいのか分からなかった。
それになにより、取り急ぎ確認しなければならない事柄があったのだ。
「あのさ、慈々のことなんだけど。下層域の状態が心配だからって、一週間くらい前にあんたのところを出たんだよね? その直前に、どこかに寄ってくみたいなこと言ってなかった?」
果朶の問いに、或令はしばらく考え込む素振りを見せて、ややあって首を振った。
「私には、分からない。気になるのであれば、漓師儒に聞くといいだろう。下層域に帰る前、彼が泊まっていたのは
刹那、果朶は息を詰めた。
やはり、という思いと、まさか、という思いが、次々胸に去来した。
淡々と、或令は続ける。
「漓師儒は、慈々を高く評価していた。是非とも自分も指導したいと申し出があったので、私は、慈々を漓師儒のところに向かわせた。娥家の邸で、慈々は、下層域の惨状について耳にする機会があったらしい。それで、大急ぎで下層域に帰ったと漓師儒から連絡を受けた。そろそろ、一週間近く経つ。妹に会ったたら、慈々のことを確認しようと思っていたところだ」
果朶は、くしゃりと顔を歪めた。
……──その情報だけで、十分だった。
◇
雨になるのは珍しい。
一ヶ月に二日も降れば良いほうだ。
けれどもその日は、近年稀なほどの荒天だった。
昼過ぎに降り始めた
遠雷さえ、聞こえていた。
風にあおられた雨粒が、娥家の外階段を登っていく果朶の
果朶は額に手をかざし、夕闇が下り始めた錘の空を一人見上げた。
己の顔貌に、いい感情を抱いたことはさほどない。
それでも今は、良かったのかも知れないと少し思えた。
果朶が、ここに入り込むことができたのは、美しいとよく言われるこの見た目のお陰でもあるのだから。
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