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「……驚きました。さんとえんじゅさんは、ご姉弟だったのですね」


 上層域が近付く毎に、みぞれはますます激しくなった。

 高みにそびえるてんがいさんは、濃い霧に覆われて、その稜線をおぼろにしている。


 ぽつりと呟かれたすいの言葉に、は、肩を竦めてみせた。

「まあ、厭朱も滅多に言わないしね。〈ぼうえん〉の連中も、ほとんどが知らないと思うよ」

 よほどの古参か、こうとうかいろうに知り合いがいる者くらいだろう。


 厭朱は、幼い頃に父親を亡くしている。母親はそれより早くに父親の借金を厭って逃げ出しており、厭朱の肉親は姉である緋否のみだった。


 厭朱の重たい手提げ金庫は、心が壊れた緋否のために良医を手配し、貴重な薬を手に入れる時にのみ開かれた。

 夢幻を生きている姉が、いつかうつつに戻ってくる日に備えて、厭朱は、自身の見た目を若く保った。

 過ぎ去った時の長さを知った緋否が心を痛めることがないように、美容と健康に徹底的に気を配った。


 すいぐうへと向かうしょうどうしゃの横を、降りしきる霙に打たれながら、おんしんちょうが跳んでいく。

 濡れそぼった銀のはねが、鈍く光った。


『……錘宮より、きゅうこくです。すいしゅは先ほど、がいそうしょうの特効薬が開発されたことを明らかにしました。早ければ、一週間ほどで諸症状の緩和が見込まれるとのことです。錘宮は急遽、下層域に治療拠点を設けることとし──……』


 本来ならば、なによりも待ち望まれた報せのはずだ。

 けれども果朶は、やるせない思いとともに、音信蝶の声を受け止めた。


 ──失われたものたちは、もう二度と帰ってこない。


 吐いても吐き切れない溜息を吐き、果朶はふと違和感を覚えた。

 けん役を務めたは、ぼうが開発した薬によって、たったの四日で随分と回復することができた。

 それなのに何故、音信蝶は『早ければ一週間』と報じたのか。


 やがて、ゆるやかに蛇行する錘宮の長城が見えてきた。

 白い霙が絶え間なく横切る向こうに、茶色い壁が延々と延びている。


 果朶はまた、あることに気が付いた。


 錘宮に設けられたきんもんの扉が、ことごとく開け放たれている。

 錘の都市ときんえんをつなぐその通路を、荷車を押した十数人ものじゅたちが、慌ただしく行き来していた。


 彗翅も、怪訝に呟いている。

「どうしたのでしょう、一体。あのような光景、収穫期にしか見たことがありません」


 じゅうきゅうきんもんに乗り付けて、顔馴染みとなって久しいかどもりに事の次第を尋ねれば、彼は、困惑しきった表情で知り得ていることを教えてくれた。


「その……実は先ほど、二類の師儒から特効薬の開発に成功したと報告が来たのです。それで現在、二類塔で製造した特効薬を、順次錘宮へと運び出している最中でして……」


 思いも寄らぬ情報に、果朶は眉をはね上げた。

 彗翅も、意表を突かれたようだ。


 確かに二類は、忘我たちと同様に病理の解析を進めていた。

 進捗のほどをきちんと聞いたことはなかったが、彼らもまた、咳嗽症の原因はたんこうしょうの粉末が含まれた煙草だと気が付いたのだろうか。


 もしかすると先ほどの音信蝶は、忘我たちが開発した治療薬ではなくて、二類が作った特効薬のことを報じていたのかも知れなかった。

 そうであれば、薬の効果が発揮される頃合いに差異があったことにも納得がいく。


 彗翅は、不信感と訝しみを足して二で割ったような表情で踵を返した。


「……一旦、錘主に事情を聞いてまいります」


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