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「姉さんには昔っから、好いた野郎がいたんですぜ! なのに──ああ、その野郎ってのもひどかった。いつかは一緒になろうと誓ったくせして、娼婦になった姉さんがそうの名手として大金を稼ぐようになったと見るや、搾れるだけ搾りとって逃げだしたんだ! それ以来、姉さんは夢幻を生きてるみたいなお人になって──……」


 あえぐように、えんじゅは、最後の言葉を吐き出した。

「──不幸ばっか背負い込んで。姉さんは、幸せを知らないまま逝っちまった」


 は、厭朱の頭を腹のあたりに抱え込むようにして、虚空を見つめた。

ぼうえん〉の綺羅晶掘りとなってから数ヶ月が経った頃、厭朱と交わしたある会話が不意に思い起こされた。


『ちょいと人から聞いたんですがねぇ。えいの旦那。同居の御方が、げっかんの付き人をしておられるってぇのは、まことですかい?』


 果朶はその時、厭朱の長煙管から棚引く紫煙を胡乱に見遣ったものである。

〈望淵〉に来て日が浅かったとは言え、この組合主に対する油断のならなさは、しっかり身に染み付いていた。


『はぁ、そうだけど? だったらなにさ』


 刺々しい果朶の言葉に、厭朱は、珍しくも言い淀む気配を見せた。

『なにってわけでも、ねぇですが。月季館には、って娼婦がいるでしょう? わたくしの、姉なんです。もう何十年も会ってない、唯一の肉親でしてなぁ』

 そう言ってふーっと紫煙を吐いた厭朱に、果朶は思わず目を見張った。

 この成金趣味の男に姉がいたとは、予想外だったのだ。


 当時の果朶は、月季館に行ったことはなかった。ただ、の口から緋否の名を聞いたことがあっただけだ。

『へぇ、こうとうかいろうってすぐそこじゃん。なんで会いに行かないわけ』


 疎遠になったわけを問うた果朶に、厭朱は、首を横に振った。

『昔は、定期的に会いに行っとりましたがねぇ……。なんて言ったらいいのやら。学のないわたくしには、分かりませんや。とにかくもう、つらいんでさぁ。自分のことをちらとも瞳に映さない、わたくしが誰だか分かってもない姉を見ると』

 けれども様子は気になりましてなぁ。その同居の御方から、なんぞ聞いてやいませんかい? と尋ねた厭朱は、今から思えば、緋否が持つ儚さによく似たものを、伏せた目元に滲ませていた。


 ──それからだ。

 果朶が、夜勤明けに月季館に立ち寄って、見聞きした緋否の様子をそれとなく厭朱に知らせるようになったのは。

 頻繁に月季館を訪れる『付き人の同居人』を訝しんでいた娼婦たちも、厭朱の名を聞かされて、得心がいったようだった。


「……あんた、最期は会ったわけ」

 果朶がぽつりと尋ねると、ややあって、厭朱は微かに首肯した。

「会ったところで、と思いましたがねぇ……。わたくしが雇った医者が、あの女主人はもうだめだと言うもんで、居ても立ってもいられなくなった。それで、顔を見に行ったんでさぁ」


 深々と溜息を吐いて、厭朱は、よろよろと立ち上がった。

 こちらに背を向けるその刹那、その双眸が、濡れ光っているのが見てとれた。


の旦那。心配するこたぁ、ありゃしません。……わたくしは、心得ておりますからなぁ。わたくしが後を追ったら、姉さんは、本当に報われないお人になっちまう。ああ、そうだ──……双子には、会いましたかい? 漓の旦那を探しに行くと、血を吐いてるほうを吐いてないほうが負ぶって、すいぐうまで行きましたぜ」


 果朶の喉から、呻くような声が零れた。

 なにかが、なにかがあと少しでも早ければ、違っていたかも知れない。

 間に合ったかも知れない。


 悔恨が、喉元までせり上がった。


「会えなかった。……──俺は、にしか、会えなかった」

 その一言で、厭朱は、すべてを悟ったようだった。

 ぐしゃぐしゃと髪をかきまわして、腰帯の後ろに挿していた長煙管を手に取ると、〈望淵〉の蹴破られた扉に向かう。


「そいつぁ災難。様子でも見に行ってやりましょうかねぇ。あの子も、随分とつらいでしょうなぁ──……。傍に居る人間が、必要だ。あの子にとってもわたくしにとっても、それは同じことでさぁ」


 厭朱の足取りは、まるでぐものようだった。


 背中は丸まり、いつしかみぞれが混じり始めていた北風に揺れる髪は、灰色だ。

 誰が見ても、四十代のそれだった。


 それも無理はないことで、彼にはもう、若々しく在るだけの理由などないのだ。


 たとえ、上辺だけでも同じ時を過ごしたいと願った彼の姉は、今となっては地脈へ還っていくばかりなのだから。


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