18
見当を付けた場所に着くまで、一、二分とかからなかった。
狭くて急な階段に、大柄な男の背が見える。
先ほどの女が言ったように、二人だった。下卑た笑いを零しながら、逃げようとする小さな影を押さえている。小さな影はなりふり構わず、手足を振り回して暴れている。
ま白い絹の下裳が見えた。
彼らのいる階段が、昇りだったのは幸いだ。
目に付いた民家から洗濯物を干すための麻縄を拝借し、
「こいつは高くつきそうだな。ちょうど、懐が寂しくなる頃だったんだ。助かったぜ」
「おい、乱暴にしすぎるなよ。せっかくの良い値が下がる」
獲物に夢中の男たちは、まだ後ろを振り向かない。
彼らの足に麻縄を巻き付けて、果朶は全力で引き摺り下ろした。
「この、──くそ野郎どもが」
一瞬の出来事だった。
ずだだだだ、と。鈍い音が、静まり返った
「っ、────!?」
勢いよく階段を滑り落ちた男たちを、果朶は、すんでのところで避けきった。そして、階段を駆け上がる。
大きな双眸は見開かれ、なにも映していないように見えた。
「……逃げるよ」
果朶は彗翅の手首を引いた。立ち上がってくれたので、そのまま一緒に走り出す。
なにが起きたか分からないといった体の男たちは、階段の昇り口で起き上がって、互いの足に絡まった麻縄にけつまずいて転んでいた。
果朶と彗翅は、廻廊を駆け抜けた。別の階段を走って昇って、また駆けた。
ちらほらと屋台が立った繁華な廻廊に出たあたりで、二人はやっと足を止めた。
◇
「すみません。ご迷惑をお掛けしました」
両手で包み込んだ小さな茶器に視線を落とし、
「ついて来いと、いきなり言われて。大声を出そうにも、背中に金属のようなものを突き付けられてしまい、抵抗ができなくて」
着ていた服が高価そうに見えたから、剥いて売ろうとしたようです、と。そう説明を加えられ、
「なんであんたが謝るわけ。悪いのは、あんたを一人にした俺なんだけど」
怖い思いをさせてしまった。いくら個人的な用とは言っても残して行くべきではなかったと、苦々しさを噛み締める。
二人は、とある茶館の客席にいた。
客の入りはほとんどなく、店主と思しき男性も、勘定台に引っ込んで帳簿の確認に勤しんでいる。入り口には
果朶は、湯気の立つ
「ていうかやっぱり、もう会いに来ないでくれる?
交渉を諦めるよう、普段より重い調子で言い渡した果朶に対し、彗翅はすっと顔を上げた。
「──いいえ」
彼女の手が添えられた青磁の茶器は、注がれた木犀茶が小刻みに震えている。けれども声はゆるぎなかった。
「次からは、悪目立ちしない格好で参ります。人に頼んで、護身術も身に付けます。私が、
そう宣言した双眸は、黒曜石のような輝きに満ちている。静謐な意志がそこにあった。
果朶は咄嗟に眩暈がした。
「あんた馬鹿? なんでそんなにめげないの。あんたの仕える御方とやら、そんなに怖い相手なわけ? 綺羅晶の仕入れ先、確保できないなら殺すとでも言われてるの?」
「いえ、そうではないのですが」
彗翅はくすくす微笑んだ。
果朶が狼狽えているさまが、よほどおかしいらしかった。
男たちから逃げてから、初めて彗翅が笑ったので、果朶は不覚にもほっとした。
「人道には反しない御方ですので、ご心配なく。
「はあ、そう。……価値、ねぇ」
果朶は深い息をついた。もう一度、木犀茶で喉を潤す。夏に飲んでもしつこさを感じない、ほのかに甘い花の茶だ。
「だったら、事情を聞かせてくれる? それを含めて判断するよ」
彗翅はきょとんと首を傾げた。
なにを聞いたのか分からない、そう言いたげな顔だった。
果朶は茶卓に頬杖を付く。
「どうして綺羅晶が必要なのか、貴族たちを警戒するのは何故なのか。そのあたりを教えてくれって言ってんの。詳しいことも聞かないで、なんとなくで巻き込まれてみちゃうほど、俺ってお人よしじゃないんだよね」
彗翅が説明する内容、それ次第では協力もやぶさかではないと。
果朶は暗にそう言ったと、気付いた彗翅は、ぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか! とっても嬉しい。ありがとうございます。果朶さまだったら、いつかはそう言って下さるって信じてました!」
今までの笑顔も十分に朗らかだったが、これはそれらの比ではない。
すべてが霞んでしまうような、まさに喜色満面の笑みである。
果朶は顔を引きつらせた。
「いや、とりあえずは聞くだけだから。当然、断るかもしれないし? ただ、あんたが身体を張ってるのに、俺が逃げ回ってばかりいるんじゃ、不公平だって思っただけだから」
君子危うきに近寄らず、ではなく。せめて、もう少し向き合ってみるべきだ、と。
流石に、そう考えたのだ。
彗翅は茶器から手を離し、背筋を正して
「ええと、そうですね。私たちは空を飛びたいのです」
果朶はぴたりと動きを止めた。
いつかの夜勤明けの朝のように、聞き違えたか、と思った。
「待って。……今、なんて?」
追い付いていない果朶に構わず、彗翅はつらつらと語り続ける。
「
果朶は、額に手を当てた。
彗翅が言っていることは分かっても、頭が理解していなかった。
なるほど確かに、突飛な提案ではないかも知れない。
学院の
実際に、鳥を捕まえてきた師儒がいた。彼は、鳥が飛翔する時に、周囲の大気がどのように
あるいは、温かい空気を構成する游子は空の高いところに昇ると、
彼らは、ことごとく失敗した。
その事実は、人間が空を飛ぶのは不可能だと、
せめてもの成果と言えば、八年ほど前に、蝶の模型に自力飛行の動力を乗せた通信用の道具として、
果朶の唇の隙間から、力のない嘲笑が零れた。
「いやいや、無理でしょ。なんだってまたそんな、夢みたいな話をするの」
「──いつか、土地が足りなくなります」
彗翅はきっぱりと言い切った。
一抹の愁いを帯びた目で、果朶の瞳の奥まで射貫いた。
「錘の国の人口は、何十年も、右肩上がりに増えています。このままいけば、岩壁に築き上げた現在の都市だけでは、国民を収容しきれなくなる。新たな土地が必要だ、それが錘宮の見解です」
果朶は目を見開いた。
まさか、とも思ったが、錘の土地が有限なのは事実だった。
大地に穿たれた巨大な岩穴。底には湿地林が広がっている。縁にそびえる天涯山は、穀物を育てる貴重な土壌だ。
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