18


 見当を付けた場所に着くまで、一、二分とかからなかった。


 狭くて急な階段に、大柄な男の背が見える。

 先ほどの女が言ったように、二人だった。下卑た笑いを零しながら、逃げようとする小さな影を押さえている。小さな影はなりふり構わず、手足を振り回して暴れている。

 ま白い絹の下裳が見えた。


 彼らのいる階段が、昇りだったのは幸いだ。

 目に付いた民家から洗濯物を干すための麻縄を拝借し、果朶かだは男たちに忍び寄る。


「こいつは高くつきそうだな。ちょうど、懐が寂しくなる頃だったんだ。助かったぜ」

「おい、乱暴にしすぎるなよ。せっかくの良い値が下がる」


 獲物に夢中の男たちは、まだ後ろを振り向かない。

 彼らの足に麻縄を巻き付けて、果朶は全力で引き摺り下ろした。


「この、──くそ野郎どもが」


 一瞬の出来事だった。

 ずだだだだ、と。鈍い音が、静まり返った廻廊かだに響く。

「っ、────!?」

 勢いよく階段を滑り落ちた男たちを、果朶は、すんでのところで避けきった。そして、階段を駆け上がる。


 彗翅すいしは顔面蒼白だった。上段に座り込んで、がたがたと震えている。

 大きな双眸は見開かれ、なにも映していないように見えた。


「……逃げるよ」

 果朶は彗翅の手首を引いた。立ち上がってくれたので、そのまま一緒に走り出す。

 なにが起きたか分からないといった体の男たちは、階段の昇り口で起き上がって、互いの足に絡まった麻縄にけつまずいて転んでいた。


 果朶と彗翅は、廻廊を駆け抜けた。別の階段を走って昇って、また駆けた。

 ちらほらと屋台が立った繁華な廻廊に出たあたりで、二人はやっと足を止めた。



「すみません。ご迷惑をお掛けしました」

 両手で包み込んだ小さな茶器に視線を落とし、彗翅すいしはぽつりと呟いた。


「ついて来いと、いきなり言われて。大声を出そうにも、背中に金属のようなものを突き付けられてしまい、抵抗ができなくて」

 着ていた服が高価そうに見えたから、剥いて売ろうとしたようです、と。そう説明を加えられ、果朶かだは思わず眉をひそめた。

「なんであんたが謝るわけ。悪いのは、あんたを一人にした俺なんだけど」

 怖い思いをさせてしまった。いくら個人的な用とは言っても残して行くべきではなかったと、苦々しさを噛み締める。


 二人は、とある茶館の客席にいた。


 客の入りはほとんどなく、店主と思しき男性も、勘定台に引っ込んで帳簿の確認に勤しんでいる。入り口には花提灯はなちょうちんが垂れ下がり、二人の姿を廻廊から隠してくれた。


 果朶は、湯気の立つ木犀茶もくせいちゃを啜った。

「ていうかやっぱり、もう会いに来ないでくれる? 下層域かそういきでは、今日みたいなことって珍しくもなんともないから。守ってあげれる自信があるほど、俺は強くないんだし」

 雨禾うかりんとは違って、小柄だし筋肉もない。

 交渉を諦めるよう、普段より重い調子で言い渡した果朶に対し、彗翅はすっと顔を上げた。


「──いいえ」


 彼女の手が添えられた青磁の茶器は、注がれた木犀茶が小刻みに震えている。けれども声はゆるぎなかった。


「次からは、悪目立ちしない格好で参ります。人に頼んで、護身術も身に付けます。私が、綺羅晶きらしょうを諦めることはありません」

 そう宣言した双眸は、黒曜石のような輝きに満ちている。静謐な意志がそこにあった。


 果朶は咄嗟に眩暈がした。

「あんた馬鹿? なんでそんなにめげないの。あんたの仕える御方とやら、そんなに怖い相手なわけ? 綺羅晶の仕入れ先、確保できないなら殺すとでも言われてるの?」


「いえ、そうではないのですが」

 彗翅はくすくす微笑んだ。

 果朶が狼狽えているさまが、よほどおかしいらしかった。

 男たちから逃げてから、初めて彗翅が笑ったので、果朶は不覚にもほっとした。

「人道には反しない御方ですので、ご心配なく。錘宮すいぐうにとっても私にとっても、この交渉はそこまでする価値がある、というだけの話です」

「はあ、そう。……価値、ねぇ」


 果朶は深い息をついた。もう一度、木犀茶で喉を潤す。夏に飲んでもしつこさを感じない、ほのかに甘い花の茶だ。

「だったら、事情を聞かせてくれる? それを含めて判断するよ」


 彗翅はきょとんと首を傾げた。

 なにを聞いたのか分からない、そう言いたげな顔だった。

 果朶は茶卓に頬杖を付く。

「どうして綺羅晶が必要なのか、貴族たちを警戒するのは何故なのか。そのあたりを教えてくれって言ってんの。詳しいことも聞かないで、なんとなくで巻き込まれてみちゃうほど、俺ってお人よしじゃないんだよね」


 彗翅が説明する内容、それ次第では協力もやぶさかではないと。

 果朶は暗にそう言ったと、気付いた彗翅は、ぱっと顔を輝かせた。

「本当ですか! とっても嬉しい。ありがとうございます。果朶さまだったら、いつかはそう言って下さるって信じてました!」

 今までの笑顔も十分に朗らかだったが、これはそれらの比ではない。

 すべてが霞んでしまうような、まさに喜色満面の笑みである。


 果朶は顔を引きつらせた。

「いや、とりあえずは聞くだけだから。当然、断るかもしれないし? ただ、あんたが身体を張ってるのに、俺が逃げ回ってばかりいるんじゃ、不公平だって思っただけだから」

 君子危うきに近寄らず、ではなく。せめて、もう少し向き合ってみるべきだ、と。

 流石に、そう考えたのだ。

 彗翅は茶器から手を離し、背筋を正して圏椅いすに座り直した。


「ええと、そうですね。私たちは空を飛びたいのです」


 果朶はぴたりと動きを止めた。


 いつかの夜勤明けの朝のように、聞き違えたか、と思った。


「待って。……今、なんて?」


 追い付いていない果朶に構わず、彗翅はつらつらと語り続ける。

天涯山てんがいさんを越えたいのです。天涯山は、人の足で踏破するには険し過ぎる俊峰でしょう。過去に誰もが滑落した。だから、空を飛ぶための道具を開発しようと考えたのです」


 果朶は、額に手を当てた。

 彗翅が言っていることは分かっても、頭が理解していなかった。


 なるほど確かに、突飛な提案ではないかも知れない。

 学院の師儒しじゅたちは、長きにわたって唱えてきた。天涯山を越えられるのは、空を飛ぶ鳥だけだ。ならば人が異邦を踏むには、翼を持つしかあるまいと。


 実際に、鳥を捕まえてきた師儒がいた。彼は、鳥が飛翔する時に、周囲の大気がどのように游子ゆうしの作りを変化させるか観察し、それらを模倣した晶汽しょうきを動力にしようとした。

 あるいは、温かい空気を構成する游子は空の高いところに昇ると、気象望きしょうぼうによって明らかになっている。その原則を応用し、飛ぶことを試みた師儒がいた。


 彼らは、ことごとく失敗した。

 その事実は、人間が空を飛ぶのは不可能だと、すいの民に認識付けるには十分だった。

 せめてもの成果と言えば、八年ほど前に、蝶の模型に自力飛行の動力を乗せた通信用の道具として、音信蝶おんしんちょうが開発されたくらいである。


 果朶の唇の隙間から、力のない嘲笑が零れた。

「いやいや、無理でしょ。なんだってまたそんな、夢みたいな話をするの」

「──いつか、土地が足りなくなります」


 彗翅はきっぱりと言い切った。

 一抹の愁いを帯びた目で、果朶の瞳の奥まで射貫いた。


「錘の国の人口は、何十年も、右肩上がりに増えています。このままいけば、岩壁に築き上げた現在の都市だけでは、国民を収容しきれなくなる。新たな土地が必要だ、それが錘宮の見解です」


 果朶は目を見開いた。

 まさか、とも思ったが、錘の土地が有限なのは事実だった。

 大地に穿たれた巨大な岩穴。底には湿地林が広がっている。縁にそびえる天涯山は、穀物を育てる貴重な土壌だ。禁苑きんえんを潰して、住居を建てるわけにはいかない。


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