29


 この青年は、どこまで腹立たしいのだろう。


 果朶かだが、予科生たちからの憐憫れんびんと好奇の視線を避けたいと思っている時に、こうも目立つ真似をするなんて。

 首席の座に、居座っているだけでは飽き足らず。


 気付けば、或令こくれいを振り払っていた。


『うるさい、あんたには関係ないよ。触んないで。俺に話しかけないでくれる? もう二度と近付かないで』


 吐き捨てた果朶に対し、或令はなにも返さなかった。


 ただ、振り払われた片手を宙に浮かせて、その場に佇んでいた。

 そのさまも気に障った。


 果朶はその後、或令に謝ることはなく、或令の方から果朶に働きかけることもなかった。

 二人はすれ違ったまま卒試を迎え、そして、果朶が学院予科を去ることになる地歴九百十六年の春が来る。


 要するに、果朶は或令を相手にとんでもない醜態をさらしたのだ。

 地歴ちれき九百二十一年の秋になって心底思う。あの時の自分は、なんと礼を失していたのか。

 気持ちに余裕がなかった、だなんて言い訳にならない。


「あー……その、なんていうか。昔予科にいた頃に、ちょっと見掛けたことあるっていうか? ほら、彼、成績優秀で有名だったし」


 気まずさと恥ずかしさが邪魔をして、果朶の、彗翅すいしに対する応答はなんともすっきりしないものになってしまった。

 けれども幸い、彗翅は訝しく思わなかったらしい。そうですかと頷きながら、空き机に古語辞典を置いている。


「兄曰く、新入りの師儒しじゅたちも本科の研究に慣れてきて、最近は監督補佐と言ってもさほど仕事がないそうです。慈々じじさんが内弟子になるかどうかはさておいて、見学だけでもできないか、確認してみましょうか?」


 果朶は、咄嗟に驚いた。


 兄曰く、と彗翅は言った。

 つまり、或令が彗翅に対して、なんらかの物事を喋ったということだ。

 あの、氷の彫像のように寡黙な男が!


 絶句していると、傍らで話を聞いていた慈々が口を開いた。


「なるほどなのだ。内弟子にならなくても見学ができるなら、それはとてもありがたいことなのだ。是非とも、お願いしたいのだ」



 慈々を伴って地下室を出て行ったはずの彗翅が、数分も経たぬ内にばたばたと慌ただしく戻ってきて、すみません果朶さま急用ができましたと言った時、伯烏はくうたちと班分けについて話し合っていた果朶は、正直なところやはりと思った。


 糸のほつれは、それがどんなに小さくても、見る見る内に広がっていくものだ。


 朝、えりや袖の縫い目がほつれていることに気が付いて、時間がある時に直しておこうと思い、一旦は放置したとする。

 すると夜、家に帰って脱ぐ頃には、どうしようもないほどに広がっているというわけだ。

 別の長袍がいとうに着替えておけば、眠い目を擦りながら繕う時間は短くて済んだのに、と嘆いても後の祭りである。


 得てして人の縁もそういった性質がある。


 果朶が、これまでの人生において学んできた経験則だ。


「大変申し訳ないのですが、果朶さま。私の代わりに、慈々さんを本科三類塔さんるいとうまで送り届けていただけませんか? 兄と合流しさえすれば、後は良いようにしてくれると思いますので」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る