30


 十月五日、午後の四時ごろ。


 彗翅すいしは、慈々じじのことを早々に或令に打診してくれたらしい。

 汽界の精度が非常に高く、編み出しにも長けた少年がいる。その少年は予科生でも、誰かの内弟子でもない。本科の研究がどんなものか見てみたいと言っているので、連れて行ってもいいだろうか、と。


 その頼みを、或令こくれいは快諾したと聞いていた。


『了承』ではなく『快諾』なのが、果朶かだにとっては意外だった。


 一等書記官である彗翅と、下層域に住む慈々が知り合いであるのは、不自然だと言わざるを得ない。そのため慈々は、〈東濠とうごう〉の綺羅晶掘りとして或令に紹介される手筈てはずになっていた。


望淵ぼうえん〉とは異なって、〈東濠〉は、貴族たちからの寄附金で成り立っている組合だ。

 幹部が持つ人脈は非常に広く、その伝手を辿った結果、慈々が彗翅に行き付いた、という設定である。


 先ほど、今日の業務は一段落したという彗翅が、地下室まで慈々を迎えにきた。これから或令に引き合わせる、というのを見送った矢先のこれである。


 果朶は眉をはね上げた。


「俺が? それって大丈夫なわけ?」


 本科塔が位置しているのは、禁門きんもんを越えた先だ。

 すなわち、禁苑の内部である。

 農夫でもなければ師儒しじゅでもない、一綺羅晶掘りに過ぎない自分が、おいそれと立ち入って良いのだろうか。


 そう思って尋ねると、彗翅は首を縦に振った。


「十九禁門から出てください。もしも誰かに見咎められたら、私の遣いでめい師儒に会いに行くのだと答えて下さって構いません」


 彗翅の顔は、わずかばかり強張っていた。

 純白のうわぎをまとった肌は、より一層青褪めて、果朶の問いに応えつつも他のことを考えているふうに見える。


 この時間からの急用だ。

 なにか、書記官や官吏にとって穏やかならぬ事態が発生したのかも知れなかった。


伯烏はくうさんや、几園きえんさんの方が本科の勝手は分かっておられると思うのですが、兄は飛行技術の開発について一切を知りません。私の代理として、慈々さんを連れて行くには不自然です」


 果朶は前髪をかきまぜた。

 正直、気は進まなかった。


 かつての同輩と鉢合わせる可能性は否めない。そしてなにより、どんな顔で鄍或令に会えと言うのか。

 けれども、明らかに急いでいる様子の彗翅を、個人的な理由で断るわけにもいかなかった。


「別に、良いけど……」

「すみません、お願いします」


 彗翅は頭を下げるや否や、地下室の階段を駆け上がっていく。翻ったま白い裾は、百合の香りとともに、あっという間に消えていった。


「……なにか、あったのでしょうか」

「さあな。もしそうだとしても、後々情報が入るだろう」


 微かに眉をひそめた四汪しおうに、伯烏が首を横に振る。

 果朶は、いくつかの引き継ぎを手短にし終えてから、階段の下で佇んでいた慈々の肩をぽんと叩いた。

「それじゃ、行こっか」


 行ってらっしゃい! と、几園が明るく見送ってくれる。


 錘宮の廊下に出ると、そこもなにかと忙しなかった。

 書記官や官吏が足早に行き交って、中には走っていく者さえいる。


「……游子が、いつもと違うのだ。あっちこっちに飛び交って、ごたごたしていて、落ち着きだって全然ないのだ」


 慈々がぽつりと呟いて、果朶も無言で頷いた。


 汽界を通してあたりの空気を観察すると、游子たちは、普段よりもぎこちないやり方で互いにぶつかり合っている。

 中には、隣り合う游子構造の中に混ざり込んでしまっている游子もいた。


 細長い錘宮で、多くの人間が慌ただしく動き回っているせいだ。

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