「はい。果朶かださまに、飛行技術の開発に携わっていただきたいのです!」


 果朶は、今度こそなにも考えられなくなった。

 彗翅すいしの澄んだ高い声が、静寂に転がる鈴のように、耳の奥で反響する。

 ──飛行技術の開発に、携わる。


 自分が?


 天涯山を越えるために?


「な……にを、馬鹿なこと言ってんの」


 絞り出した声は掠れていた。

 何度も首を横に振って、果朶は後ろに数歩下がる。

 めまいがしたので、圏椅いすに座り直した。


「それこそ無理でしょ。俺じゃ力不足だよ。ていうか俺が錘宮に行ったら、綺羅晶はどうするの? 融通する人、いなくなるでしょ」

「それはなんとか考えます。少なくとも、果朶さまが力不足だなんてことは有り得ません。先ほどあんなに的確に、設計図の問題点を指摘したではありませんか!」

 彗翅は一歩も引こうとしない。

 それどころか貴重な人材を逃すまいと言わんばかりに、拳を握って力説してくる。


「どうか一度、見学だけでもいらして下さい! 次の休みに、ご自宅までお迎えに上がります。今月の家賃収集はいつですか?」

「──五日後だねぇ」

 答えたのは、果朶ではなく雨禾うかだった。


 いつの間に帰ってきたのか、廊下と炊事場の間にある仕切りのための布を持ち上げ、のんびりと微笑んでいる。

 雨禾の後ろには、煙草の包みを手にした娼婦たちの姿があった。


「ちょっと、雨禾。なに勝手に教えてるの」

 果朶は抗議の声を上げたが、シュエホワがはしゃぎはじめる方が先だった。


「あら、なぁに。果朶と彗翅ちゃん、どこか行くの?」

「お出かけ? 二人で? 良かったじゃない! これで一歩前進ね!」

 蝶を追い掛ける童女のように楽しげに頷き合い、頑張るのよ、と彗翅に向かって声援を送っている。


 果朶はもう、なにも考えたくなくなった。



 空を飛んで天涯山を越えるなら、手本にするのは鳥が良い。

 だから果朶は、暇さえあれば鳥の模写を続けてきた。


 つばめ鶺鴒せきれい、鷹に椋鳥むくどり

 

 どんな身体をしているか、共通する部分はなにか。早く飛ぶ鳥、高く飛ぶ鳥。それらの身体に、違いはあるか。


『観察し続けなさい』


 果朶にそう言ったのは先生だった。夕陽を浴びて、光り輝く禁苑の水田で。


 その時、果朶が見ていたのは汽界だった。

 おびただしい数の游子が、酔ってしまいそうなほど散らばっている。

 静止している、淡い緑色をした游子。ゆったり流れる、深い青色の游子。透明に近い白の游子が、煌めきながら飛んでいく。

 静止しているかに思えた緑の游子は、目を凝らして再度見れば、わずかばかり震えていた。


『お前はまだ、経験が浅い。今は、色とりどりの砂の中に放り出された気分だろう。けれども観察を続けることで、砂粒の違いが判ってくる。彼らはてんで異なるものだ』


 大きいもの、小さいもの。

 震えているもの、動いているもの。

 他の游子を引き付けやすいもの、反発して距離を取りがちなもの。

 それらの組み合わさり方は何千通りもあるのだと、先生はゆったり笑んだ。


『観察し続けなさい、果朶。そして、正確に見極められる人間になりなさい。游子に限った話ではないよ。先人たちは数百年間、そうやって価値あるものを創ってきたのだから』


 ──果朶の炭筆が描いた鳥は、もう何羽になるだろう。


 学院を辞めた時に、以前の模写は捨ててしまった。けれども綺羅晶掘りとしての生活が落ち着くと、空いている時間に、気付けば炭筆たんぴつを走らせていた。

 見定めたいものなど、なくなってしまっても。それはもう、果朶の習慣となっていたから。


「……朶。果朶」


 肩を叩かれ、居間の圏椅に座っていた果朶は、はたと顔を上げた。

 長い前髪に隠れた目を優しく細め、雨禾が果朶を覗き込んでいた。

「鳥、描き終わった? 彗翅ちゃんが待ってるよ」


 果朶は露骨に顔をしかめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る