8
八月十日。
家賃の収集がある日だった。
大家が先ほどやってきて、賃料を集めていった。そして
断じて、
仮に彗翅が訪ねてきたら。そしてもしも本当に、錘宮に赴くことになったら。
先生に、小切手を送る時間がなくなってしまう。万が一にも、そんな不義理がないようにしたかったのだ。
「本当に迎えに来たんだ。ていうかあの子、一体いつからうちの住所を知ってたわけ?」
「二週間くらい前かな? 知りたいって言われたから、教えておいたよ」
果朶は、手にしていた
「教えなくていいんだよ! ああ無理、本当に無理。緊張でおかしくなりそう。雨禾も来てよ、俺と同じ元予科生じゃん」
雨禾は、困ったように首を傾げた。
「でも俺は、果朶と違って優秀じゃないよ?」
果朶は眉を跳ね上げた。
「なに言ってんの。錘の国で、一番精度の高い汽界を見てるのはあんただよ」
一概に『汽界を見る』とは言っても、その様相は様々だ。
たとえば果朶は、居間の
一方で、壁の游子を見る程度で精いっぱい、その向こうにある游子たちは曖昧にしか認識できない、という者もいる。
水や風など、游子の作りが単純なものは認識できるが、刺繍が施された布や料理が盛られた器など、複雑なものは苦手だ、という者もいる。
そもそも、どんなに優秀な
けれども雨禾は、人の臓器の外側くらいまでは認識している。雨禾の成績が悪かったのは、汽界の精度が高すぎて、特定の游子『だけ』に着目するのが難しかったせいだった。
『前髪は、切れないんだ』
予科生時代、雨禾がこっそり教えてくれた。控えめな笑みを、浮かべながら。
『目が疲れちゃうからね。入れ替わり立ち代わり、色んな游子が目の前を飛んでいくのを見ていると』
果朶は正直、羨ましいと思ったものだ。精度の高い汽界には、相応の労苦が伴う。それでもやはり雨禾の汽界を、一度でいいから見てみたい。
「ありがとう。だけど今日は用事があるから、果朶だけで行っておいで? 彗翅ちゃん、待ち
雨禾に急かされ、果朶は浅く息を付いた。
はっきり言って怖かった。見学だなんておこがましい。
けれども、否、だからこそ。
『飛行技術の開発に、今以上に関わる気はない』と。きっぱり跳ね除けてしまえるほど、強い人間にはなり切れなかった。
立ち上がったのは、ほとんど惰性。
扉を開けると、溌溂とした笑みがある。
「おはようございます、果朶さま……えっ、ちょっと待ってください! どうしましょう、今日は髪を下ろされているんですね!? なんだかすっごくどきどきします。私と結婚しませんか?」
頬を押さえて廻廊にしゃがんだ彗翅を見て、果朶の口から苦笑が零れた。
「しないって。あんた、本当に元気だね」
◇
渋い顔をしながらも、果朶は彗翅に連れられて、結局錘宮へと出かけていった。
汽界を通して二人が充分に遠ざかったことを確認してから、雨禾は身を翻す。
寝室の、
やがて目当ての建物が見えてきて、雨禾はやっと足を止めた。
賭場の入り口に腰掛けて、痩躯の男が長煙管をふかしていた。
訳ありの依頼でも引き受けると噂の賭場を果朶が初めて訪れた折、雨禾は付き添いとして同行としていた。下層域で暮らし出して日が浅かった当時の果朶は、当然ながら土地勘がなかったからだ。
痩躯の男も、それを覚えていたらしい。眉間に小さく皺を寄せた。
「……なんの用だ」
雨禾は、唇を引き結んだ。決意を固めるために、今一度俯いた。
ややあって、顔を上げる。
「頼みがあるんだ。──果朶には、秘密で」
強張った指先で、包みを解く。
長らく陽を浴びていなかったものに特有の、乾いた深い香りがした。
◇
錘の国の最下層から最上層まで、歩いて登れば四日はかかる。単純に歩いた場合にかかる日数がそれなので、途中で休息を挟んだり睡眠を摂ったりすれば、到着は更に遅れる。
そのため一昔前までは、離れた廻廊へ赴く際、ちょっとした旅支度が必須だった。
けれども地歴九百二年、すなわち果朶が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます