八月十日。

 家賃の収集がある日だった。


 大家が先ほどやってきて、賃料を集めていった。そして果朶かだは、朝の早い時間の内に、痩躯そうくの男を訪れて稼いだ金を預けていた。


 断じて、彗翅すいしの訪いを待ちわびてのことではない。


 仮に彗翅が訪ねてきたら。そしてもしも本当に、錘宮に赴くことになったら。

 先生に、小切手を送る時間がなくなってしまう。万が一にも、そんな不義理がないようにしたかったのだ。


「本当に迎えに来たんだ。ていうかあの子、一体いつからうちの住所を知ってたわけ?」

「二週間くらい前かな? 知りたいって言われたから、教えておいたよ」

 雨禾うかはいっかな悪びれない。


 果朶は、手にしていた黄連雀きれんじゃくの模写を、卓の上に放りだした。

「教えなくていいんだよ! ああ無理、本当に無理。緊張でおかしくなりそう。雨禾も来てよ、俺と同じ元予科生じゃん」

 雨禾は、困ったように首を傾げた。

「でも俺は、果朶と違って優秀じゃないよ?」

 果朶は眉を跳ね上げた。

「なに言ってんの。錘の国で、一番精度の高い汽界を見てるのはあんただよ」


 一概に『汽界を見る』とは言っても、その様相は様々だ。

 たとえば果朶は、居間の圏椅いすに座ったままの状態で、板壁を構成している游子や、壁の向こうの廻廊を形作っている游子、廻廊を吹き過ぎる風を作っている游子まで、はっきりと認識することができる。

 一方で、壁の游子を見る程度で精いっぱい、その向こうにある游子たちは曖昧にしか認識できない、という者もいる。

 水や風など、游子の作りが単純なものは認識できるが、刺繍が施された布や料理が盛られた器など、複雑なものは苦手だ、という者もいる。


 そもそも、どんなに優秀な師儒しじゅであっても、汽界において人の身体を隅々まで認識するのは不可能だと言われていた。皮膚や臓器、骨が詰まった肉体は、游子の集合体として映る時、あまりにも入り組み過ぎているからだ。

 けれども雨禾は、人の臓器の外側くらいまでは認識している。雨禾の成績が悪かったのは、汽界の精度が高すぎて、特定の游子『だけ』に着目するのが難しかったせいだった。


『前髪は、切れないんだ』

 予科生時代、雨禾がこっそり教えてくれた。控えめな笑みを、浮かべながら。

『目が疲れちゃうからね。入れ替わり立ち代わり、色んな游子が目の前を飛んでいくのを見ていると』

 果朶は正直、羨ましいと思ったものだ。精度の高い汽界には、相応の労苦が伴う。それでもやはり雨禾の汽界を、一度でいいから見てみたい。


「ありがとう。だけど今日は用事があるから、果朶だけで行っておいで? 彗翅ちゃん、待ち草臥くたびれてるよ。きっと」

 雨禾に急かされ、果朶は浅く息を付いた。


 はっきり言って怖かった。見学だなんておこがましい。

 けれども、否、だからこそ。

『飛行技術の開発に、今以上に関わる気はない』と。きっぱり跳ね除けてしまえるほど、強い人間にはなり切れなかった。


 立ち上がったのは、ほとんど惰性。

 扉を開けると、溌溂とした笑みがある。


「おはようございます、果朶さま……えっ、ちょっと待ってください! どうしましょう、今日は髪を下ろされているんですね!? なんだかすっごくどきどきします。私と結婚しませんか?」

 頬を押さえて廻廊にしゃがんだ彗翅を見て、果朶の口から苦笑が零れた。


「しないって。あんた、本当に元気だね」



 渋い顔をしながらも、果朶は彗翅に連れられて、結局錘宮へと出かけていった。

 汽界を通して二人が充分に遠ざかったことを確認してから、雨禾は身を翻す。


 寝室の、牀榻しんだいの下の引き出しから、一抱えほどもある紙包みを取り出した。そしてそれを脇に抱えて、雨禾も家を後にした。


 美蘭廻廊めいらんかいろうを抜けて、いくつかの階段を下る。錘の都市を、下へと降りる。

 やがて目当ての建物が見えてきて、雨禾はやっと足を止めた。


 賭場の入り口に腰掛けて、痩躯の男が長煙管をふかしていた。


 訳ありの依頼でも引き受けると噂の賭場を果朶が初めて訪れた折、雨禾は付き添いとして同行としていた。下層域で暮らし出して日が浅かった当時の果朶は、当然ながら土地勘がなかったからだ。

 痩躯の男も、それを覚えていたらしい。眉間に小さく皺を寄せた。


「……なんの用だ」


 雨禾は、唇を引き結んだ。決意を固めるために、今一度俯いた。

 ややあって、顔を上げる。


「頼みがあるんだ。──果朶には、秘密で」


 強張った指先で、包みを解く。

 長らく陽を浴びていなかったものに特有の、乾いた深い香りがした。



 錘の国の最下層から最上層まで、歩いて登れば四日はかかる。単純に歩いた場合にかかる日数がそれなので、途中で休息を挟んだり睡眠を摂ったりすれば、到着は更に遅れる。

 そのため一昔前までは、離れた廻廊へ赴く際、ちょっとした旅支度が必須だった。


 けれども地歴九百二年、すなわち果朶が天涯山てんがいさんで発見される三年前。


 晶汽駆動車しょうきくどうしゃが発明されて、錘の国の交通事情は一変する。

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