晶汽駆動車しょうきくどうしゃは、従来の人力車に晶汽しょうき動力どうりょくを仕込んだものだ。


 冷たい空気を模した晶汽と、熱い空気を模した晶汽が車輪近くの部品の中に組み込まれ、両者の間を大気が行き来することで動力を生む。

 車夫たちは、いくつかの操縦棹レバーを動かすだけで、汗水を垂らすことなく車を進めることができた。


 駆動車くどうしゃの幌を持ち上げて、果朶は、後ろへと流れていく錘の国の都市を見つめた。


 花煙節かえんせつまで、十日と少し。


 果朶たちの華灯づくりは数日前に落ち着いたが、国民たちはこれからが忙しいようだった。荒野から打ち上げられる花火を見るべく、そこかしこで、若者たちが急ごしらえの露台を建設している。


「確かに、人口過密かも」


 果朶はぼそりと呟いた。

 風にはためく洗濯物を見ての感想である。


 民家の窓辺や軒先に、柔らかそうな子どものくつ。木綿で織られた大人の汗衫はだぎに、女ものと思しき薄絹うすぎぬ。大きな長袍がいとう、手巾や布団。

 ほとんどが、独り住まいのそれではない。


「そうですね。原因の一つは、晶汽駆動車だと錘宮すいぐうでは言われています」

 正面に座った彗翅すいしが、まるで講義をする師儒しじゅのような口ぶりで言った。

「最上層から最下層まで、三時間もかけずに行き来が可能になりましたから。禁苑の作物が前より出回り、人々の生活は向上した。だから出生率が跳ね上がったというのが、内務局の見解です」


 今日の彗翅は、質のいい白絹のほうを着ていた。襟も、袖も、濃淡や質感の違いはあれど、すべて純粋な白色だ。

 決して墨を零すことが許されない、一等書記官の官服である。


 綺羅晶掘りと書記官では、圧倒的に後者の地位が高いことを果朶かだは今更思い出した。出会いが出会いであっただけに気安い言葉遣いをずるずると続けてしまっていたが、もう少し丁重に接するべきだろうか。


「言い忘れていましたが、錘宮に到着したら、まずは錘主に謁見します。果朶さまがいらっしゃることをお伝えしたら、是非にと錘主が望まれまして」

 愛想のよい口調で、彗翅がとんでもないことを告げたので、反射的に果朶は呻いた。

 気安い言葉を改めようといった殊勝な発想は、あっという間に飛んでいった。


「あんたさ、なんだってそんな大事なこと、今になって教えるわけ……」

 せめて、家を出る前に知っていたら。素っ気ない灰色の長袍ではなく、改まった服装に着替えることができたものを。


 彗翅はいたってけろりとしている。

「すみません。でも、錘主は気さくな御方ですので。気負わなくても大丈夫だと思いますよ!」


 そうか気さくな性格なのか、だったら心配いらないな。そう思ってしまえるほど、果朶は楽観的な性格をしていない。

 大急ぎで、錘主に関する知識を記憶のあちこちからかき集めた。


 かつて果朶は、錘主に会ったことがある。


 十五年以上前。天涯山で発見されて、さほど経たない頃のことだ。


 当時の果朶は、そこかしこが骨折しており、熱もいっかな下がらなかった。錘宮の医務室で、朦朧としながら治療を受ける果朶を見下ろし、錘主は溜息を吐いていた。

 この異邦人を、どうしたものか。今になって思い返せば、あれはそういう眼差しだった。


 落ち窪んだ目をした老いた錘主は、果朶が学院を辞める少し前、肺炎で亡くなった。

 錘主の息子が後を継いで新たな錘主となったはずだが、その時代の大きな変化を、果朶はほとんど覚えていない。

 予科の卒試そつしが近かったし、それまで三類さんるい所属だった夜行やこうが、二類にるいに移籍したばかりだった。周囲はなにかと忙しなく、世間の動きにまで気を配っている余裕はなかったのだ。


 彗翅が仕える今代の錘主は、先代錘主と、きょう家から嫁いできた夫人との間にできた子だ。確か、今年で三十だったか。

 朗らかな声が耳を打って、果朶ははたと我に返った。


「花を一輪、いかがでしょう。今朝方、禁苑で咲き初めた桔梗ききょうでございます。まだまだ花びらも葉もしなやか。瑞々しく高貴な色を、花瓶に挿せば一週間は楽しめます──……」


 荷車を押した花売りが、果朶たちの駆動車とすれ違うところだった。荷車には、桔梗や向日葵ひまわり君子蘭くんしらんなど、色鮮やかな夏の花が溢れんばかりに詰まれている。


 既に、上層域に差し掛かるところだった。


 駆動車が走るのは、〈大廊たいろう〉と呼ばれる廻廊だ。

 大廊は、従来の廻廊を拡張して、人と駆動車がぶつからないよう、駆動車帯くどうしゃたいを設けたものだ。大廊同士を繋ぐのは階段ではなく平らな斜面で、ゆえに、果朶たちは車を乗り換えることなく登ってくることができたのだった。


 何気なく空を見上げて、果朶は知らず息を呑んだ。

 天涯山が、近かった。


 雲一つない夏空に、俊峰がくっきりと映えている。生命力を漲らせた木々たちが、こちらをじっと見下ろしていた。

 斎湖さいこから見上げるよりも、ずっと大きい。

 数年前まで、当たり前だった大きさだ。


 ──超えるのだろうか、あれを。


 越えられるのだろうか。


「ああ、見えてきました。錘宮です」

 彗翅が身を乗り出した。


 ゆったりと軒を連ねる家々の向こうに、錘宮の長城が、天涯山と錘の都市を隔てるように脈々と続いていた。

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