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 錘の国の民の中には、錘宮は贅を尽くした絢爛な場所で、煌びやかな調度と内装に溢れ返っているのだろう、と考える者も少なくない。


 とんでもない、と果朶かだは思う。

 むしろ逆だ。


 茶色い蛇のように細長い錘宮は、その中央に、串を通すようにして廊下が一筋走っている。

 廊下の両脇には、衝立ついたて程度の間仕切りしか持たない官吏たちの執務空間が、工房の作業場のごとくつらつらと並んでいた。

 簡素であることこの上ない。


 元はと言えば、地歴元年。禁苑の面積が乏しい頃に、天涯山の開拓に従事する者たちの宿舎として、設けられた建物だった。

 禁苑は、拓かれていくにつれ、宿舎に加えて隔壁かくへき検問所けんもんじょを必要とした。無断で農作物を持ち出す者が出始めてしまったからだ。


 そこで宿舎を中心に、長城錘宮が築かれた。人々は、長城の随所に設けられた〈禁門〉からしか、禁苑に出入りすることができなくなった。


 錘宮の、彗翅に案内された小さな部屋で、果朶は、ここ数年は実践する機会もなかった礼儀作法を記憶の隅から引っ張り出して、危なっかしい叩頭礼こうとうれいを捧げていた。


「錘主に拝謁はいえつつかまつります。果朶、と申します」


 余計なことは口にするまい、と決めていた。

 慣れない美辞麗句で飾り立てた挨拶を述べでもして、うっかり失礼な言い回しをしたら堪らない。錘主に気に入ってもらいたくて来たわけではないのだから、最低限、不興を買わない立ち居振る舞いができればよい。

 けれども、そこまで考える必要はなかったらしい。


「うんうん、よく来てくれた。顔を上げてくれないか? 畏まる必要はないぞ。われが彗翅に無理を言って、君に会う時間を作ってもらったのだから」


 跪いた果朶の前方。申し訳程度に一段高くなった上座から、明るい声が降って来た。


 裏表のなさそうな声色だが、本当に顔を上げてもいいのか迷うところだ。

 しばらく逡巡していると、衣擦れの音がして、果朶の前に影が差した。


「よっ、と」


 軽やかな掛け声とともに、果朶の顔が持ち上がる。

 顎の下に檜扇ひおうぎを差し込まれたのだ、と悟った時には、見知らぬ顔が目の前にあった。


「おお、男前だなぁ。男前というか、どえらい美人だ。こりゃあ引く手数多だろ? 道理でうちの書記官が、珍しく熱を上げるわけだ」


 果朶は言葉も出ないまま、正面の顔を見返した。

 失礼を承知で言うのなら、平凡な顔立ちだ、と思った。


 眉はすっきりとして形がよく、広い額は清潔感があるものの、気迫も威厳もさほどない。この国の最上位である漆黒の袍に身を包み、錘主にしか許されない冕冠べんかんを被っているが、率直に言って着られている感が否めない。

 せいぜいが、話しやすくて面倒見がいい近所のお兄さん、といった風情である。


「おやめください、錘主。私のことはいいんです」

 彗翅が耐えかねたように口を挟んだ。

 彗翅は、つい先ほどまで錘主が座していた圏椅いすの背後に佇んで、薄っすら頬を染めていた。


「それに、差し出がましいようですが。果朶さまが素敵なのは、お顔だけではありません。私が初めて求婚した時、気持ち悪いと言いつつも、私が足を捻っていないか確認しておられたのです。心の優しい御方です」


 彗翅の解説を聞く内に、果朶は苦い顔になった。

 彗翅の『結婚してください』を、本気だと勘違いした過去の自分が恥ずかしかったし、怪我の有無に関しては、さり気なく確認したつもりだったのに。知られていたとは、予想外だ。


 錘主は、楽しげに微笑んだ。

「そうかそうか、失敬した。失礼なことを言ってしまったな」


 果朶は大きく息を呑んだ。

 次の瞬間、果朶の顎を檜扇から解放すると、錘主は床に座り込んで、深々と頭を下げたのだ。

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