15


 白百合の香りの中に、冷やかすようなせせら笑いが広がっていく。

『流石、きょう書記官だ。ああまで言うのか』『そりゃあな。目障りなめい書記官に、辞めて欲しくて仕方がないんだろう』『無理もない。なにせ錘主は、鄍書記官を重用してばかりいるからなぁ』


 不生女ふしょうじょ三十にして職を持つ。


 不生女とは、子を産めない女のことだ。


 今ではそのようなこともないのだが、禁苑きんえんからの食料供給が安定しなかった時代において、三十近くなっても結婚せずに働いている女性というのは物笑いの種だった。


 不生女ははらが使いものにならないから、嫁にも行けない。

 しかし、禁苑で採れる穀物は、多くの労苦の上に成り立つものだ。ただ飯食らいを置いておくのは禁苑に対する冒涜であり、恥である。

 要するに、三十を超えても働いている女は、貴重な食料を得るために自ら稼ぐしかない石女うまずめだけだ、という故事である。


 つまりげんは、あまり長く錘宮に勤めていては不生女だと思われるぞと、彗翅すいしのことを揶揄やゆしたのだ。


「三十どころか、四十、五十……いや、六十を超えても錘宮におられるつもりやも知れませんぞ」

 また、別の書記官が割って入った。

 銀色のうわぎを着ていたが、尊大な物腰だった。愿よりも年嵩としかさで、髪は艶を失っている。

「なにせ鄍書記官は、官吏になられる御方ですからな。叶う日がやってくるまでにかかる月日は、十年やそこらでは済みますまい。はっはっはっは──……」


 明らかな失笑だった。やり取りを聞いていた書記官の数人が、堪えかねたように小さく噴き出す。

 彗翅もまた、ふふっと笑んだ。

 禁苑を吹き抜けていくそよ風を思わせる、軽やかな声だった。


「お心遣い、痛み入ります。皆さまのように親切な方々に囲まれて、私は実に幸せ者です。これからも、どうぞよろしくお願いしますね」


 どこまでもそつのない対応だった。背筋を伸ばし、愿に向かって拱手をする様も、一本芯が通ったようで美しい。

 愿が、鼻白んだ顔付きになった。


 骨ばった腕を組むと、とっとと去れと言わんばかりに顎をしゃくる。これ以上相手取っても、彗翅は目立った反応を示さないと踏んだのだろう。


 彗翅が歩みを再開する。

 書記官室を通り過ぎ、人気のない通路へと出て、白百合の香りも随分と遠くなったところで、彗翅はふと歩調を緩めて、果朶の横に並んだ。

「すみません、果朶さま。思った以上に、手こずりました。ご面倒だったでしょう?」


 果朶は首を横に振った。

「別に──……」

 彗翅が謝ることではない。


 言いたいことも、思ったことも山ほどあった。


 面倒というよりは、驚きが勝っていた。あってはならない扱いだったし、いつも通りに振る舞われても、やはり彗翅が心配だった。


 けれども咄嗟に口から出たのは、聞いても聞かなくてもいいような疑問だった。

「あのおっさんが最後に言ってたのって、どういう意味? あんたは官吏になられる御方だ、ってやつ」


 きっと、最適解が分からなかったのだろう、と思う。


 一等書記官になってから、あるいは書記官になってから。先ほどのようなことは、珍しくもなんともないであろう彗翅に向かって、差し出す言葉の。


 彗翅の唇に、困ったような苦笑が浮かんだ。


「ああ、あれは。実は私が悪いんです、馬鹿なことを言ったから」

「馬鹿なこと?」

「はい。無理なことだと分かってますけど、私、本当は官吏になりたいんです。それを、登用試験の口頭試問で言ってしまって」


 果朶は目を見開いた。

 それと同時に腑に落ちた。


 書記官の登用試験とは異なって、政務を担う官吏たちを選抜する試験では、女性の受験が認められない。彗翅がいくら努力したとて、今の制度では実を結ばない、夢のまた先にある夢の話だ。

 だから先ほどの書記官は、わざとらしい言い回しで、六十年だのなんだのと嘲笑っていたのだろう。


「なんでまた、官吏になりたいって思うわけ」

 興味を引かれて尋ねた果朶に、彗翅は軽く胸を張った。


「だって、全然違いますよ。書記官と官吏では、変えることのできる範囲が。もたらしうる影響も、動かせるものの多さも。私はいつか持っている知識のすべてを、官吏として使いたい」


 たとえば今回の飛行技術の開発にしろ、書記官としての賛同と官吏としての賛同では、政治的な重みが違う。書記官は、記録を取るのが本領だ。けれども官吏は、政策の実現のために周囲に働きかけることができる。


 そこまで果朶に説明すると、彗翅はあっと声を上げた。


「そう言えば、先ほどのきょう一等書記官ですが。飛行技術開発の件はご存知ないので、そのつもりでお願いしますね。彼は、杏家の意向を強く受けて動いている書記官です」

 果朶は、思わず書記官室の方角を振り返った。

「……杏家の意向?」


「はい。彼は杏家の分家筋で、日頃の職務で知り得たことを杏家当主に横流しています。錘主の専属になったのも、元はと言えば、杏家当主が人事局に働きかけたからだとか」


「ああ、……なるほど」

 果朶は軽く嘆息した。つくづく錘宮とは難儀な場所だ。

 錘主が果朶にしたように、杏家もまた、錘主の動きを注視しているらしい。なにか変わった動きがあれば、すぐさまに気付けるようにという方略だろう。


「杏家当主と錘主って不仲なの?」

「いいえ、悪くないと思いますよ。ただ、その『悪くない』を維持するための監視役が、杏一等書記官というだけの話です。……と言うか、その。果朶さまは、私を馬鹿にしないのですか?」


 唐突に尋ねられ、果朶は目を瞬かせた。


 なんのことだろうと見下ろせば、果朶の眼差しを恐れるように、ふっと彗翅が下を向く。彼女の長い睫毛の先は、小刻みに震えていた。


「官吏になりたい、などと聞いて。生意気だ、と思わないのですか。そんなこと、いくら望んだところで叶うはずもないのに」

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