15
白百合の香りの中に、冷やかすようなせせら笑いが広がっていく。
『流石、
不生女とは、子を産めない女のことだ。
今ではそのようなこともないのだが、
不生女は
しかし、禁苑で採れる穀物は、多くの労苦の上に成り立つものだ。ただ飯食らいを置いておくのは禁苑に対する冒涜であり、恥である。
要するに、三十を超えても働いている女は、貴重な食料を得るために自ら稼ぐしかない
つまり
「三十どころか、四十、五十……いや、六十を超えても錘宮におられるつもりやも知れませんぞ」
また、別の書記官が割って入った。
銀色の
「なにせ鄍書記官は、官吏になられる御方ですからな。叶う日がやってくるまでにかかる月日は、十年やそこらでは済みますまい。はっはっはっは──……」
明らかな失笑だった。やり取りを聞いていた書記官の数人が、堪えかねたように小さく噴き出す。
彗翅もまた、ふふっと笑んだ。
禁苑を吹き抜けていくそよ風を思わせる、軽やかな声だった。
「お心遣い、痛み入ります。皆さまのように親切な方々に囲まれて、私は実に幸せ者です。これからも、どうぞよろしくお願いしますね」
どこまでもそつのない対応だった。背筋を伸ばし、愿に向かって拱手をする様も、一本芯が通ったようで美しい。
愿が、鼻白んだ顔付きになった。
骨ばった腕を組むと、とっとと去れと言わんばかりに顎をしゃくる。これ以上相手取っても、彗翅は目立った反応を示さないと踏んだのだろう。
彗翅が歩みを再開する。
書記官室を通り過ぎ、人気のない通路へと出て、白百合の香りも随分と遠くなったところで、彗翅はふと歩調を緩めて、果朶の横に並んだ。
「すみません、果朶さま。思った以上に、手こずりました。ご面倒だったでしょう?」
果朶は首を横に振った。
「別に──……」
彗翅が謝ることではない。
言いたいことも、思ったことも山ほどあった。
面倒というよりは、驚きが勝っていた。あってはならない扱いだったし、いつも通りに振る舞われても、やはり彗翅が心配だった。
けれども咄嗟に口から出たのは、聞いても聞かなくてもいいような疑問だった。
「あのおっさんが最後に言ってたのって、どういう意味? あんたは官吏になられる御方だ、ってやつ」
きっと、最適解が分からなかったのだろう、と思う。
一等書記官になってから、あるいは書記官になってから。先ほどのようなことは、珍しくもなんともないであろう彗翅に向かって、差し出す言葉の。
彗翅の唇に、困ったような苦笑が浮かんだ。
「ああ、あれは。実は私が悪いんです、馬鹿なことを言ったから」
「馬鹿なこと?」
「はい。無理なことだと分かってますけど、私、本当は官吏になりたいんです。それを、登用試験の口頭試問で言ってしまって」
果朶は目を見開いた。
それと同時に腑に落ちた。
書記官の登用試験とは異なって、政務を担う官吏たちを選抜する試験では、女性の受験が認められない。彗翅がいくら努力したとて、今の制度では実を結ばない、夢のまた先にある夢の話だ。
だから先ほどの書記官は、わざとらしい言い回しで、六十年だのなんだのと嘲笑っていたのだろう。
「なんでまた、官吏になりたいって思うわけ」
興味を引かれて尋ねた果朶に、彗翅は軽く胸を張った。
「だって、全然違いますよ。書記官と官吏では、変えることのできる範囲が。もたらしうる影響も、動かせるものの多さも。私はいつか持っている知識のすべてを、官吏として使いたい」
たとえば今回の飛行技術の開発にしろ、書記官としての賛同と官吏としての賛同では、政治的な重みが違う。書記官は、記録を取るのが本領だ。けれども官吏は、政策の実現のために周囲に働きかけることができる。
そこまで果朶に説明すると、彗翅はあっと声を上げた。
「そう言えば、先ほどの
果朶は、思わず書記官室の方角を振り返った。
「……杏家の意向?」
「はい。彼は杏家の分家筋で、日頃の職務で知り得たことを杏家当主に横流しています。錘主の専属になったのも、元はと言えば、杏家当主が人事局に働きかけたからだとか」
「ああ、……なるほど」
果朶は軽く嘆息した。つくづく錘宮とは難儀な場所だ。
錘主が果朶にしたように、杏家もまた、錘主の動きを注視しているらしい。なにか変わった動きがあれば、すぐさまに気付けるようにという方略だろう。
「杏家当主と錘主って不仲なの?」
「いいえ、悪くないと思いますよ。ただ、その『悪くない』を維持するための監視役が、杏一等書記官というだけの話です。……と言うか、その。果朶さまは、私を馬鹿にしないのですか?」
唐突に尋ねられ、果朶は目を瞬かせた。
なんのことだろうと見下ろせば、果朶の眼差しを恐れるように、ふっと彗翅が下を向く。彼女の長い睫毛の先は、小刻みに震えていた。
「官吏になりたい、などと聞いて。生意気だ、と思わないのですか。そんなこと、いくら望んだところで叶うはずもないのに」
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