28


 流石に彗翅すいしは察しがいい。状況を呑み込むと、困ったように眉を下げた。

 けれども少し考えた後、果朶かださま、なにも食べていらっしゃらないんですよね? せっかくですし、ご飯を食べに行きましょう、と果朶を誘う。


 曖昧に頷きつつ、果朶は、罪悪感を持て余した。


 貴重な休みに、雑用どころか、自分の相手までさせてしまっている。


「果朶さまは、地脈を見たことがありますか?」


 唐突に彗翅に問われて、果朶は、目を瞬かせた。

 廻廊へと続く階段に足を掛けた状態で、彗翅は、感慨に耽ったように目を細めて宵闇に包まれた荒野を見ていた。


汽界きかいを見ることができる方に、いつか尋ねてみたいと思ってたんです。死した者は灰になって、大地の奥にある気の流れへと還っていく。ならば果朶さまの汽界には、それらの游子も映っていますか?」


 荒野から吹いてきた夜の風が、果朶たちの頬を撫でた。風は僅かに水気をはらみ、夏の暑さでんだような草木の香りを運んでくる。

 遥か彼方に、黒々とした斎湖さいこがあった。


 果朶は、首を横に振った。


「や、見えない。土を構成してる游子たちなら見えるけど。きっと、ずっと底の方にあるんじゃない?」


 空気が鳴った。なにかが、空を駆け昇っていく気配がする。

 次いで、どぉん──……という重低音が、腹のあたりを震わせた。


 天空でほころんだ花に気付いて、彗翅がはしゃいだ声を上げる。彼女にしては珍しく、無防備に喜んでいるようだった。


「あっ、始まったみたいです! すごいですね、あんなに高いところまで行くなんて……。ほら、見てください。形が変わるみたいですよ!」


 彗翅が予想した通り、打ち上げられた最初の花火は、菊花きっかの形に展開した後、ふっと束の間制止した。それから、数十匹の白い蝶へと姿を変える。


 廻廊から、歓声と拍手が沸き起こった。上がり調子の口笛が鳴る。


「よっ、今年も一発目から景気が良いなぁ。序盤はしばらく、貴族たちから送られた花火玉が続くんだっけか?」

「学院が設計した花火玉が楽しみだ。あそこは例年、凝ったつくりにしてくるだろう?」


「果朶さま、食べたいものはありませんか? 嫌いなものは?」

 雑踏を器用に縫いつつ、彗翅が果朶を振り返った。

 果朶はと言えば、浮かれた空気と人いきれ、ゆらゆら揺れる華灯の光に、危うく酔ってしまいそうだった。


「えーっと……激辛? 辛いもの」


「あれっ、そうなんですか? 珍しいですね。じゃあ、辛くないものを──……」


 彗翅の言葉に被せるように、廻廊の下側から、なにやら揉めているらしき声が聞こえてくる。

 見下ろせば、りもせずに湖柵こさくに近付いた子どもたちの集団が、りん喜婆きばあから追い払われているところだった。


「こら、ちびども。いい加減にしろ! 危険だから離れてろって、何回言わせりゃ気が済むんだ?」

「えー! おじさんのけちー! じゃあさ、次の花火がどんなのか教えてよ」


「お、おじさ……じゃねぇ、そんなん俺らも知らねぇよ。色も形も、実際に打ち上げてみないとな! 設計したのは、奇才と名高い夜行やこうだ。期待して待ってろや」


 しっしと凜に手を振られ、子どもたちは互いに顔を見合わせた。


「学院の……漓、夜行?」

「あー! 俺、その人知ってる! 晶汽駆動車しょうきくどうしゃを発明した偉い人でしょ!」

「本当!? その人、花火も作れんの? すげー! 半端ねー!」


 果朶ははたと足を止めた。

 振り仰いだ紺の空に、綺羅樹きらじゅの花がぱっと咲いた。


 音もなく、降るように。

 いくつもいくつも、開いては消えていく。


 花芯の先に至るまで、緻密に再現された光の植物だった。


 息をすることさえ忘れていた。果朶の瞳が映したのは、ただ、永遠とも思えた時間だった。

 散っていく綺羅樹の花は、儚く溶ける雪にも似ていた。


 最後の花弁が見えなくなった、数拍後。

 割れんばかりの喝采が、錘の底を支配する。


 彗翅が、感嘆の吐息を漏らした。

「……流石ですね。……漓師儒しじゅのご高名はかねがね伺っておりましたが、まさか音の出ない花火をお作りになるなんて。生まれて初めて目にしました」


 果朶も微かに頷いた。散っていった火の粉たちが喉の奥に着地して、沁み込んでしまったように、口が乾いて言葉が出て来なかった。


『奇才』夜行は、最初に手を差し伸べられたあの瞬間から何年経っても、やはり果朶の世界の中心だった。


「あれ、果朶? どうしたの、こんなところで?」

 不意に肩を叩かれて、果朶は背後を振り向いた。


 老若男女でごった返す廻廊で、小さな包みを抱えた雨禾うかが、首をかしげてこちらを見ている。

 前髪で隠れていても、その双眸が『〈望淵ぼうえん〉の点火作業は?』と問うているであろうことは明白だった。

 彗翅がぺこりと頭を下げた。


「あ、雨禾さん、こんばんは。お久しぶりです、実はですね……」


 祭りに行くよう言われたことや、朝からなにも食べていない果朶のために辛くない料理を探していることなどを説明する。

 状況を把握すると、雨禾は、微苦笑の形に口元を緩めた。


「この人混みで果朶が食べられる料理を探すのは、かなり骨が折れると思うよ。彗翅ちゃんさえ良かったら、月季館げっきかんに食べに来ない? ちょうどこれから、小姐しゃおじぇたちに夜食を出そうと思ってたんだ」


 ◇


 紅灯廻廊こうとうかいろうは閑散としていた。普段は人気の、泣きぼくろがある年若い煙草売りも、暇そうに行ったり来たりを繰り返している。


 あと一時間もすれば客が詰め掛け、不夜城通りの名に相応しい様相に戻るだろうが、花火が上がっている間だけはどうしようもなかった。

 雨禾が、十七歳のめい家令嬢を誘った事情はそのあたりにある。賭場で鳴くのは閑古鳥、治安は常よりかなりまし。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る