29
娼婦たちを伴って出かけた得意客が、そろそろしけ込みに戻ろうと言うまではやはりまだかかるはず。
送った手紙が梨のつぶてに終わってしまった娼婦だけが、ひたすらお茶を引いていた。
「
「どうせ誰も来ないんだし、私たちも花火見に行きたいー。屋台とか行きたいー」
「あれっ、
正面玄関で
彼女たちの関心はすぐさまに彗翅に移り、ちょっと最近果朶とどうなの、と質問攻めにし始めた。
果朶は、そそくさと炊事場に向かった。巻き添えになっては堪らない。
錘主との会話のことを、果朶は雨禾に黙っていた。あえて言うことでもないだろうと思ったからだ。
その代わり、別件の勧誘をした。
『やっぱりあんた、飛行技術の開発に参加しない?』
雨禾の
か細い歌声が聞こえてきた。
「大きな
耳慣れない、不思議な抑揚の付いた歌だ。
蜘蛛が糸を紡ぐように、途切れ途切れの声は続く。
「お肉はお好み、まずは具材を炒めましょう。焦りは禁物、ぐつぐつ煮るのはその後で──……」
果朶は目を見開いた。
月季館の炊事場で、
慣れた手付きで、菜切り包丁を上下させている。歌の通り、とんとんとんと
彼女の横では、油を引かれた平鍋がぱちぱちと鳴っていた。
「煮立ったら、大根おろしを加えましょう。香り豊かでぴりりと痺れる、美味しい
炊事場は暗かったが、窓から差し込んだ灯篭の灯を浴びて、ほっそりとした緋否の顔は白い月のように冴え冴えと輝いている。
佇んでいる果朶の気配を察したのか、緋否が不意に振り向いた。
視線は噛み合わなかったが、彼女はふわりと微笑んだ。
「作ったの。あの人が、好きだった料理。私、作った。あの人に、何度も作った料理なの」
歌の続きかと思うような調子で言うと、戸棚から椀を取り出し、できあがったばかりの
滋味深い生姜の香りが漂った。
「食べてみて? 美味しいかしら? あの人は、美味しいって言ってくれる?」
果朶は言葉を失って、差し出された椀を見下ろした。
漆塗りの円の中で、とろみのついた白い湯物が揺れている。
葱や大葉、角切りにされた
「いや、俺は……」
雨禾から聞いた話が頭を過ぎった。
心が壊れているんだよ。将来を誓い合った幼馴染に、裏切られて以来。
たっぷりと生姜が入った湯物は、辛みが強いに違いない。
しかし、夢見るような表情の緋否を相手に断るのは忍びなく、果朶は椀を受け取ると覚悟を決めて一口啜った。
続けざまに、もう一口嚥下した。
辛くはなかった。
それどころか、知っている味だ、と分かった。
覚えていない。この湯物を、以前飲んだ記憶はない。けれども果朶は、果朶の舌は、この味を知っている。
香りこそ、錘の民が好みそうな刺激的なものだったが、口腔に広がったのはひどく優しい味だった。
みぞれ状の大根おろしが、風味全体をまろやかなものに変えている。
身体だけが覚えている。
それは一体、どこで知った味だったのか──……。
遅れてやってきた雨禾や彗翅、娼婦たちが、戸惑ったように足を止めた。
「大姐? どうしたの、こんな時間に部屋から出て」
「いつの間に炊事場に……まあまあ、明かりも付けないで……」
驚いた様子で炊事場に入ってくる娼婦たちに構わずに、果朶は、緋否の瞳をじっと見つめた。
硝子玉と大差ない双眸は、果朶の視線を虚ろに受け止め、反応の一切を返さない。
彼女はそのまま、人目を
◇
緋否が作った生姜と大根の
彗翅が鉄鍋から湯物をよそい、何故か心ここに在らずといった様子の果朶が、匙や箸を娼婦たちに配っている。
彼の横顔を見つめながら、雨禾は、無意識の内に懐を押さえていた。
そこには小さな包みがあった。
それはちょうど少し前、雨禾が痩躯の男の許に持ち込んだ包みであり、五年前、雨禾が果朶の荷からくすねたものが入っていた。
雨禾は男に、その成分を分析して欲しいと依頼していた。
『単なる
花火が上がる一時間前、痩躯の男はそう言って、再び賭場を訪れた雨禾に包みを返した。
『なんの変哲もない、神経の昂ぶりや緊張をほぐす香だ、と。確かに一部、珍しい成分は入っているが。身体に害を与えるものではないと、それを分析した者が』
そうだろうか。痩躯の男の言葉を聞いても、雨禾は釈然としなかった。
けれども同時に、安堵していた。杞憂であれば、それに越したことはない。
懸念が的中した時の、残酷な真実を果朶に告げる言葉を。
雨禾は、持ち合わせていなかったから。
大地の底が轟いて、錘の夜空に花が咲く。
それは、風に吹かれた木の葉のように、厳しい季節へ落ちゆく国に訪れた、最後の晴れ日だったかも知れない。
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