第三章 師弟再びまみえる
1
予科課程の六年目。
最初は、微かな違和感だった。
半月ほど続いた春期休暇が終わったので、しばらくの間里帰りをしていた先生の邸から寮へと戻り、朝起きて久し振りに
そして、思った。
天涯山のあたりが霞んでいる。
高峰の上空にある游子たちを、日頃の果朶は、くっきり見ていた。
風に泳ぐ花のごとくゆらりとたゆたう、夜明け前の雲の游子も。
構造を
けれどもその日は、輪郭がぼやけていた。
一つの游子が二重に見えたり、游子と游子の結び付きを見定めようと試みても、先に瞳が乾いてしまったりした。
どうも調子が悪いらしいと溜息を吐きつつも、深く考えなかったのは、それまでも熱を出している時などは游子が不明瞭に見えたから。
今日も気付いていないだけで、体調が悪いのかも知れないと思ったのだ。
一週間もせぬ内に、事情は変わった。
学院予科の授業には、編み出しの演習がある。
監督役を務める
異邦の天才と呼ばれていた果朶にとって、編み出しの演習は易し過ぎるくらいだった。
動力を生み出す時とは異なって、なんらかの調整を加える必要もなく、ただ見たままを再現すればいいからだ。
にも拘わらず、できなかった。
その日の師儒が指定したのは、一輪の
たっぷりと水気を含んだような薄水色の紫陽花を、
砂時計が引っくり返され、周囲の予科生たちが
瑞々しく紫陽花が香る中、果朶の目の前は、文字通り真っ暗になっていた。
虹彩を
植物によく見られる、同心円状の游子構造も。
早とちりした予科生がついうっかり一緒に再現してしまいがちな、植物の内部に溜まったままになっている、水分を形作る游子たちも。
それどころか、一つ一つの游子さえも。なにも、見えない。
汽界が見えない。
それを悟った瞬間に、骨の髄が空虚になって、寒々しい隙間風が駆け抜けていった気がした。
なにが起こっているのか分かったからこそ、なにが起こっているのか分からなかった。
自分は成績上位を維持してきた天才だ。こんな、悪い夢のような出来事とは、最も縁がないはずだった。
幸いと言うべきか、紫陽花の游子構造は汽界を見ずとも予想が付いた。植物の基本構造など、それまでに何度も編んでいる。
監督役の師儒からの褒め言葉を上の空で聞き流し、果朶が真っ先に向かったのは、やはり敬愛する先生の許だった。
相談相手になり得るような仲のいい友達は、六年が経つ内に、一人、また一人と除籍処分になっていた。最も信頼できた
予科で教鞭を執っている師儒たちには言えなかった。
卒試まで既に一年を切っている。果朶を三類に推薦することは控えよう、と思われてしまうかも知れない。
『──初めて聞く事例だね』
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