第三章 師弟再びまみえる


 予科課程の六年目。果朶かだは、汽界が見えなくなった。


 最初は、微かな違和感だった。

 半月ほど続いた春期休暇が終わったので、しばらくの間里帰りをしていた先生の邸から寮へと戻り、朝起きて久し振りに気象望きしょうぼうを行った。

 そして、思った。

 天涯山のあたりが霞んでいる。


 高峰の上空にある游子たちを、日頃の果朶は、くっきり見ていた。

 風に泳ぐ花のごとくゆらりとたゆたう、夜明け前の雲の游子も。

 独楽こまのようにくるくるまわる、日の出後の風の游子も。

 構造を晶汽しょうきで編めと言われたら、それなりに模倣できてしまうほどには。


 けれどもその日は、輪郭がぼやけていた。

 一つの游子が二重に見えたり、游子と游子の結び付きを見定めようと試みても、先に瞳が乾いてしまったりした。

 どうも調子が悪いらしいと溜息を吐きつつも、深く考えなかったのは、それまでも熱を出している時などは游子が不明瞭に見えたから。

 今日も気付いていないだけで、体調が悪いのかも知れないと思ったのだ。


 一週間もせぬ内に、事情は変わった。


 学院予科の授業には、編み出しの演習がある。

 監督役を務める師儒しじゅが指定したものを、予科生たちが、制限時間内に游子のかたちで認識して晶汽を編むというものだ。

 異邦の天才と呼ばれていた果朶にとって、編み出しの演習は易し過ぎるくらいだった。

 動力を生み出す時とは異なって、なんらかの調整を加える必要もなく、ただ見たままを再現すればいいからだ。


 にも拘わらず、できなかった。


 その日の師儒が指定したのは、一輪の紫陽花あじさいだった。


 たっぷりと水気を含んだような薄水色の紫陽花を、雌蕊めしべ雄蕊おしべ、花弁とがく、茎と葉に分解し、それぞれの基本単位となっている游子構造を三十分以内で編むように、と師儒は言った。

 砂時計が引っくり返され、周囲の予科生たちが鑷子せっしを持った。


 瑞々しく紫陽花が香る中、果朶の目の前は、文字通り真っ暗になっていた。

 虹彩をあっしても、果朶の瞳に映るのはただの黒い闇だった。


 植物によく見られる、同心円状の游子構造も。

 早とちりした予科生がついうっかり一緒に再現してしまいがちな、植物の内部に溜まったままになっている、水分を形作る游子たちも。

 それどころか、一つ一つの游子さえも。なにも、見えない。


 汽界が見えない。

 それを悟った瞬間に、骨の髄が空虚になって、寒々しい隙間風が駆け抜けていった気がした。

 なにが起こっているのか分かったからこそ、なにが起こっているのか分からなかった。

 自分は成績上位を維持してきた天才だ。こんな、悪い夢のような出来事とは、最も縁がないはずだった。


 幸いと言うべきか、紫陽花の游子構造は汽界を見ずとも予想が付いた。植物の基本構造など、それまでに何度も編んでいる。

 監督役の師儒からの褒め言葉を上の空で聞き流し、果朶が真っ先に向かったのは、やはり敬愛する先生の許だった。


 相談相手になり得るような仲のいい友達は、六年が経つ内に、一人、また一人と除籍処分になっていた。最も信頼できた雨禾うかも、三年前に学院を去っていた。


 予科で教鞭を執っている師儒たちには言えなかった。

 卒試まで既に一年を切っている。果朶を三類に推薦することは控えよう、と思われてしまうかも知れない。


『──初めて聞く事例だね』

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