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 あの万年氷像まんねんひょうぞうが『言い回しを変える』という配慮をしたことが新鮮で、果朶かだは答えてみることにした。

 あくまでも、巳園みえんたちが研究の主体となることに影響を与えない範囲内で、だ。


「さぁ。少なくとも、音信蝶おんしんちょうに乗せた晶汽を音声の標準型とは捉えないかな。てかさ、誰が言い出したの? その編み方が標準だって。かなり余分な構造が加わってるのに」


 ちょっと借りるねと巳園に断り、果朶は、机に置かれていた空っぽの編匣へんごうを引き寄せた。

 引き出しから鑷子せっしと拡大鏡を取り出して、晶汽の入った小瓶と、音信蝶に関する先行研究の書物を編匣の横に並べる。


「たとえばさ、母音の八音。これさぁ、右下の構造がなくっても音声晶汽おんせいしょうきとしての役割は十分に果たすんだよ。なのに付け加えられたのは、音信蝶に乗せる音声は遠くまで明瞭に聞こえる必要があったから。要するに、拡声のための構造式ってわけ」


 鳥が餌をつつくような速さで鑷子を動かし、編匣に晶汽を編んでいく果朶を見て、巳園は意外そうな顔をした。

 しかし、すぐさま控えめに異を唱える。


「ですが、音信蝶を開発したのは、あの師儒しじゅが手ずからお育てになった方なんです。一時期は、異邦の天才とまで呼ばれていました。師儒ではないため、世間一般での知名度は低いですが、学院予科は現在も彼が発見した構造式のいくつかを標準型と定めています。音声晶汽もその一つ。定説となったものを、安易に変えてしまうのは……」

 よくありません、とでも続けようとしたのだろうか。

 申し訳なさげに低められた巳園の声が、ふと途切れた。

 その双眸が、円くなる。


 くっきりとした輪郭の、男とも女とも付かぬ声が、編匣から零れていた。


 聞こえて止み、聞こえて止む。全部で八音。


 それらは純粋な母音であり、錘の国の、あらゆる響きの素だった。


「まさか……本当に、別の編み方があったのですか……?」


 巳園はたちまち顔色を変え、先行研究に記載された構造と、編匣に編まれている晶汽とを見比べ始める。

 果朶が編んだ母音の晶汽は、書物にあるものより随分と簡素だった。


 果朶は、鑷子を机に置いた。

「あくまでも、俺だったら、って話だからね。もしも俺がその道具を開発しろって言われたら、音声晶汽を単純化して他の晶汽構造と結合しやすくさせるかな。個人と個人のやり取りなら、大きい声じゃなくっていいし? ま、どうするかはあんたたちの自由でしょ」


 助言とまでは言えないが、この程度の発言で勘弁してくれないだろうか。

 その意を込めて背後の或令こくれいを振り返り、果朶は言葉を失った。


 彼は、確かに微笑んでいた。


 果朶が編んだばかりの晶汽を見下ろし、満足そうに、あるいは嬉しそうに双眸を細めている。

 その眼差しは柔らかく、薄い唇は雪が融けるように綻んでいた。


 ──それはまるで、冬の終わりにほろりと咲く木蓮に似て。


 果朶は、不意に腑に落ちた。


「やっぱりあんた、あの子の兄だね。二人揃って、花みたいに笑うんだからさ」



 空は燃えるようだった。

 紫がかった茜色の夕空が、頭上いっぱいに広がっている。


 三類塔を後にして、果朶は、十九禁門に続く小径を歩いていた。


 夜の七時ごろに慈々じじを迎えに来て欲しい、と或令たちから言われたので、一旦地下室に帰ろうと思ったのだ。


 研究室を出る前に慈々の様子を確認すると、彼は、果朶が簡素化したばかりの母音の晶汽を夢中で子音と併せていた。


 二類塔の手前にある綿花畑の横に来た時、ふと、銀に輝く小さなはねが果朶の視界を横切った。


 音信蝶だ。


 赤く熟れて沈んでいく陽の光を浴びながら、かつて果朶が生み出した発明品は、禁苑きんえんの上空を飛んでいた。


 常とは違って、無音のさまが新鮮だった。

 飛行の動力が正常に作動するか、管理担当の師儒たちが点検しているのだろうか。


 冴え冴えとした煌めきを、果朶はそっと目で追った。

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