26


 西の稜線に月が落ち、ほのかに空が白む時分。


 執務机に頬杖をつきながら、黙々と未済書類を片付けていた錘主は、取次の者がいないのをいいことにずかずかと入ってきたを認めて、ひょいと眉を跳ね上げた。

「……朝っぱらから、運動でもしていたのか? 随分な出で立ちだなぁ」


 流石の若さだ、とうそぶく錘主に、果朶は小鼻に皺を寄せた。

 果朶からすれば、三十を過ぎているのにこの時間から──それどころか、この時間まで、かも知れないが──飄然と政務についている錘主のほうが、はるかに体力無尽蔵で底が知れない。


 今朝の果朶は久しぶりに、下級官吏のがいとうに身を包んでいた。

 官吏は確かに官吏でも、袖は肩までまくり上げ、熱を逃すために襟元を緩めている、とんだ不良官吏だったが。


「三十五度って、割とかなり熱いんだね……」

 火照った頬を扇ぎながら、遠い目をしてぼやいた果朶に、錘主は怪訝に眉をひそめた。


 夜の眠りから覚めやらぬ錘宮には、白百合と墨の香りばかりが漂っている。


 あえて前置きを挟まずに、果朶は、本題に切り込んだ。


「これはこの前、とある親切な人が、俺に教えてくれた話なんだけどさ。どうやら最近、錘宮に保管してある文書類が、ひとりでに白紙に戻っちゃう変事が頻発してるらしいじゃん? 念のために、確認しておいたほうがいいと思うんだよね」

 特に、署名がないと無効になっちゃう、辞表なんかの類はさ──……


 白々しくもそう口にした果朶に、錘主はなるほどと頷いて、に凭れて腕を組んだ。

 面白そうに、果朶の顔をまじまじと観察する。

「さては君、くだんめい家の令嬢が出した辞表に、なにか手を加えたな?」


 動じることなく、果朶は薄っすら笑みを浮かべた。

「なんのこと? 俺があんたに言いたいのは、錘宮の書類の不備が外からの指摘で発覚するより、あらかじめ内々で確認しといたほうがなにかと都合がいいんじゃないのってことなんだけど」


 無論、それしきの言い回しで、錘主を騙すことができるとは思っていない。

 これは単なる、形ばかりのやり取りだった。


 たとえどんな手を用いたとしても、錘主には、果朶が彗翅の辞表に小細工を加えたという証拠を掴むことができない。

 せいぜいが、今朝方、果朶が第五資料庫の前を通りすがり、それと時を同じくして、周囲の室温が異様に高くなったという報告がもたらされる程度だろう。


 第五資料庫の鍵は、所定の場所から持ち出されていない。また、その不可解極まる温度の上昇が、辞表から文字が消えたことの原因だと裏付けるものはなにもなかった。


 錘主は、ゆったりと檜扇を弄んだ。

「なるほど、困った。確かに君の言う通り、書類の不備は内々に処理されておくべきだ。だが如何せん、時期が悪い。錘宮のひゃっかんたちは、がいそう症の後処理に奔走している。この上更に、公文書を検めよとわれが命を下そうものなら、暴動が起きるだろうなぁ」

 困ったと言いつつも、まったくもってそのようなことはなさそうな口振りだった。

 食えない男は、さぁ、どうする? と言わんばかりの眼差しで、にこやかに果朶を見上げてくる。


「鄍家の令嬢が、優秀な書記官であったことは否定しないぞ? 彼女は知識があるだけに留まらず、優れたやり方で政治の大局を見定めていた。ないきょくの次官などは、鄍もと一等書記官が職を辞したと聞いた後、惜しいものだ、とわざわざ我に零したものだ。彼女ならば、この国最初の女性官吏になれただろうに、と」


 内務局の次官と言えば、咳嗽症が流行り始めた当初、あの秋風邪はなにかおかしいと、ぜんかいでいち早く唱えたと聞いている。

 彗翅と組んで、罹患者の分布を確認していた時期もあるとか──……


「そういう意味では、鄍家の令嬢は〈奇才〉の妻に相応しいかも知れないと、彼は納得してもいたが」

「それで、あんたの言いたいことはなに?」

 意味深長な錘主の言葉を、果朶は、単刀直入な質問で遮った。


 交渉事は苦手だった。

 まどろっこしい言い回しも、好まなかった。


 研究において大切なのは、誤解を生まない表現と、明確な結論だ。政治的な遣り口は、性に合わない。


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