38


 それは、かいが見えなくなった春の宵に、先生がにくれた香炉だった。

 お守りのように思えたので、下層域に移る時もねりこうとともに携えてきたのだ。


 とは言え、二ヵ月ほど前に、掃除をしていたが誤って煉香を捨ててしまったので、香炉もここしばらくは置物と化していたのだが。


『とんでもない思い上がり。俺さぁ小さい頃、空を飛びたかったんだよね。異邦を一目見たかった。そんなの、できっこないのにさぁ──……


 ──あにさまなら、きっとやり遂げてみせるに違いないわ!


 耳の奥で懐かしい声がして、果朶はふと足を止めた。


 熟れた夕陽に照らされて、黒々とした影をえんに落とすすいないくうが見えた。


 前触れなく甦った今の台詞は、かつてあの錘内宮から学院寮まで通ってきていた少女のものだ。

 果朶を兄と呼び慕う、素直で溌溂とした子どもだった。名は、なんと言っていたか。

 訊いたことがあったかどうかも、もう思い出せなかった。なにせ彼女は、果朶がおんしんちょうを発明する少し前に、突然来なくなったのだ。


 聡明な少女の声が、不意に、もう一つの声と重なった。


 ──空は、飛べます! いつか、必ず、絶対に。


「失敬。通りたいのだが」


 だしぬけに声を掛けられ、果朶は慌てて飛び退いた。

 随分と長いこと、立ち止まっていたらしい。

 きんえんの小径は狭いため、向かい側からやってくる誰かの邪魔になってしまっていた。


「ああ、失礼……」


 果朶は息を呑み込んだ。


 背の高い人だった。


 しなやかな身体付き。ゆったりと広い肩は、本科のじゅであることを示す紺のがいとうをまとっている。


 額が広く、頬骨の位置が高かった。

 濃い睫毛に縁取られたとうがんが、彼が持つ気高さに、絶妙な塩梅で艶めかしさを添えている。


 掠れ切った声が零れた。


「先、生──……?」


 鼓動は、とっくに乱れていた。


 どくどくと胸を打つ心臓は、ともすれば、口から飛び出して行ってしまいそうに思われた。


 こうもまた、大きく目を見開いた。

 果朶の顔をまじまじと見て、数秒ほど置いた後、確かめるようにゆっくりと呟いた。


「……果朶?」


 低い声が、滑らかに鼓膜を撫でる。

 それは確かに紛れもなく、果朶が錘で最初に聞いた声だった。


 既に四十歳を超えたはずだが、果朶を拾った先生は、相も変わらず隅々まで威厳と活力にあふれていた。

 むしろ、時の経過とともに光沢を醸す黒檀と同じで、更に魅力が増したようにも感じられる。


 下層域で暮らすようになってから、果朶は、一度も先生に会っていなかった。

 ただ、無事でいることを伝えて養育費を返すために、月に一度小切手を送っているのみだ。


 眩暈がした。

 懐かしさのあまり、頭がどうにかなりそうだった。


「何故、お前がここにいる? それに、その髪は、一体……」


 夜行は、ゆっくり手を伸ばした。

 硝子細工の輪郭でも確かめる時のように、果朶の耳から肩にかけて、黒くなった髪を優しく梳いた。


 昔と変わらぬ触れ方に、不覚にも目頭が熱くなった。

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