第四章 野辺送りは雨


 吹き付けた強風が、炊事場の窓をがたりと揺らす。


 まるで物盗りかなにかに思えて、は食器を洗っていた手を止めた。

 咳き込みそうになるのを我慢して外の様子を窺ったが、こうとう廻廊を抜けていくのはびょうと唸る木枯らしばかりだ。


 ほっと息を吐いたその時、げほりと嫌な音が漏れた。


 やすりでも当てられたかのように喉が痛む。ひっきりなしに出る咳に、雨禾は身を折って屈み込んだ。

 

 こうなったら、ただ収まるのを待つしかない。


 やっと落ち着きを取り戻す頃には、息も絶え絶えになっていた。


 よろめきながら、雨禾はに座り込んだ。


 先日、げっかんメイが血を吐いた。


 朝、冷たいものが飲みたい、果実のしぼり汁かなにかが良いと訴えるのを、急に言われても用意がないと宥めていると、不意にえずいた。

 止まらないに混じって、赤黒いものがぱたり、ぱたりと口を抑える梅の指先から滴った。


 ──この冬を、越せない娼婦が出てくる可能性を、考え始めなければならなかった。


 梅は、月季館の娼婦の中でも比較的早い時期に喉に違和感を覚えていた。最近は『喉が痛くて嚥下がつらい』と、食事を厭うまでになっている。


がいそうしょう』。


 ただ『秋風邪』とだけ呼ばれていたこの症状に、そう仮称を付けたのは本科二類だ。


 十月の末になって、すいの民の激しい咳嗽とそれによる呼吸困難、ならびに身体の衰弱のため、下層域が機能停止の状況にあるとして、錘宮はようやく対策を講じ始めた。


 官吏たちは、物価の高騰やきょうそうの逝去、あるいはまことしやかに噂され貴族たちを騒がせた『すいしゅの飛行計画』を一旦脇に置くことにし、本科二類への治療法開発依頼、中下層域での炊き出しなどを推し進めた。


 咳嗽症の全容は、未だ解明されていない。

 しかし、雨禾が発症した反面はすこぶる健康であったなど、感染するわけではないことが決定的な混乱に歯止めをかけた。


 炊事場の勝手口が、二度、三度と叩かれた。


 雨禾ははたと顔を上げた。


 先ほど物盗りを警戒したのは、決して気が弱くなっているせいではない。

 物価の高騰に咳嗽症。民の生活が苦しくなるに比例して、強盗は増えていた。


 かいに焦点を当てて見ると、扉の向こうに大柄な影がある。


 雨禾が逡巡していると、その人影は勝手口に手を掛けた。


「なんだ、誰もいないのか? ……っと、大丈夫か。死にそうな面してんぞ、お前」


 ぜぇぜぇと息をしながら卓に掴まり、腰を浮かせている雨禾の姿に、来訪者は隆々とした黒い眉をはね上げた。


 がっしりとした顎には無精髭が散り、左眼を潰す格好で、傷跡が走っている。


 いかにもな悪人面に、雨禾は目を見開いた。


「確か、……〈ぼうえん〉の」


 りん、という名だったか。同居人の同僚だ。


 しょう掘りである一方で、賭場の痩躯の男とも親しいらしいと聞いていた。


 雨禾を圏椅に座らせて瓶から水を汲んでくれながら、凜はおうと肩を竦めた。


「今日は代理だ。えんじゅの野郎が、気を揉んでるんでな。果朶のやつ、最近はこっちに来てないんだろ?」


 ああ、と雨禾は頷いた。


 果朶はここ半月ほど、下層域に戻っていない。

 飛行技術の開発から手が離せないのだと聞いていた。


「会っていく? も概ね、僕みたいな症状だけれど」


 現在は下火になったが、十月末には、下層域でも飛行計画が話題に上った。

 もっともそれは、好意的なものではなく『そんなことをしてる暇があるのなら、とっとと秋風邪の対策をしろ』という批難だったが。


「ああ、後でな。先にお前に用がある」


 水を注いだ椀を目の前にどんと置かれ、雨禾は咄嗟に戸惑った。

 凜が自分に用事とは、これいかに。


 続きを言おうと口を開き、しかし凜も咳き込んだ。

 雨禾ほど重くはないものの、やはり咳嗽症らしかった。


「覚えてるか分からんが、お前、ちょっと前に頼み事をしに来たろ。果朶には秘密で、香の成分を調べて欲しいと」

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