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 この研究に、錘の国の未来を託すだけの価値はあるのか──……


 言外の意図を汲み取って、えんが怖気付いたように視線を揺らした。

 ぼうはもごもごと口元を動かして、はくおうは、苦々しさと苛立たしさが綯い交ぜになった表情で黙り込んだ。


 は首を横に振った。


すいしゅ。恐れながら、その問いは今更かと」


 じゅたちが息を呑んだ。

 錘主は初めて、意外そうな顔をした。


 果朶は眼前に手をかざした。


 錘の民より色素の薄い、明らかにおかしいとは言わないまでも、群を抜いて白い肌。

 知識を吸収するごとに、いつだって、この指の先まで活力ちからが漲る気がしていた。


「飛べるもなにも、人は必ず空を飛びます。否が応でも、もたらされる未来です」


 すいがはっと顔を上げた。瞳の奥がわずかに光った。


 果朶は、微かな笑みを浮かべた。


 ──身体の隅々まで力が満ちて、どこまでも飛んでいけるのだと信じていた。幼い頃から、ずっと。


 それが現実になるかと思えば、途端、怖気付き始める自分もいる。

 まさか本当にと狼狽えてしまうほどには、人類の飛翔とは、錘の見果てぬ夢だった。

 けれども確かに、既にここは道の半ばだ。


「錘の民が、天涯山を超えて飛ぶ。それが実現する可能性は今後高くできこそすれ、最早不可逆の領域に入っています。ただ、遅いか早いかの違いです」


 荒野に、芽吹きの時は来る。


 例えるならば、今までは耕す者に知識がなかった。ただ、荒れ果てた土地と、空腹感だけがあったのだ。


 今はもう、なにをどうすればいいのか知っている。飢えた腹を満たすためには、畑を整えて種を蒔き、四季を超えて行けばいいと分かる。


 ここまで来れば、夏の暑さに狼狽えて、虫や雑草に妨げられても、いつかは作物が実る可能性の方が高い。

 大雨で畝が流され、雷が落ちて水門が破壊されても、修復する方法は知っている。


 錘主は、目を眇めて呟いた。

「なるほどなぁ。ならば君に賭けるとするか。『彼』が認めた、たった一つの綺羅星に」


 意味ありげに付け加えられた一言に、果朶は怪訝に眉をひそめた。


 錘主はそれに構わずに、朗々と言い放った。


「では我は、ここでの研究を公に対して明らかにする。天涯山を超えるための開発が行われていて、しかも追い風を受けているのだと周知する。食料供給の当てはきんえんより他にあり、物価の高騰には天井があるはずだと民たちに期待を持たせる。君たちの研究を、錘の未来を支える柱の中に本格的に組み込む」


 地下室がざわりと揺れた。


 果朶はようやく理解した。

 錘主は今日、それを判断するために、ここを急に訪れたのだ。


 伯烏たちは互いに顔を見合わせた。


「そんな、無茶な。けんえいさんが、許すわけが──……」

「正式に組み込むって言ったって。なんとかして研究を阻止してやろうっていう貴族もいるんじゃ──……」


 次々に零れる動揺の声に、しかし師儒たちは自ずと答えを理解した。


 だからこそ、今なのだ。


 飛行技術の研究を、いつまでも秘匿しておくわけにはいかない。

 果朶たちだって、いずれは実際の風と高度で実験をする必要がある。地下室内ですべてを完結させるのは不可能だし、食料供給や土地拡張と関わってくる以上、飛行技術の開発を、錘宮の会議机に乗せなければならない時は必ず来る。


 それを、錘主にとって都合がいい頃合いを選ぼうと思ったら、今になるのだ。


 きょうそうが逝去した。

 杏家の後継ぎは、十分な影響力を持っていない。

 ──賢裔三家が、揺らぎ始めた。


めい家と家ががたがた言うなら、おう家がそれを抑え込む。そもそも、賢裔三家の専横に危機感を抱いている貴族たちは少なくない。これから土地が不足して、食料の価値が上がり、三家の権力がいや増すとなれば尚更だ。軽く根回しさえすれば、彼らは、われを支持する側にまわるだろうなぁ」


 檜扇で口元を隠しつつ、錘主は愉しげに目を眇めた。

 いかにも人の悪そうな表情だ。


 果朶は、やれやれと肩を竦めた。


 分かっていた。この開発は、ただ単に結果を出せばいいだけのものではなくて、政治的な背景と複雑に絡み合っている。

 いつかは退路がなくなると知っていて、それでもなお、ここにいる師儒たちは、研究に関わることを選んだのだ。


 今になって、降りると言い出す者はいなかった。


「君らの立場は今後一層、さまざまな思惑に翻弄される。要するにまあ、腹を括れということさ」



 最初は、ひそやかな噂に過ぎなかった。

 誰が言い出したとも知れない、信憑性のほども定かでない噂話だ。


 ──錘主が、異邦へ続く航路を拓こうとしている。

 ──開発は水面下で行なわれていて、過去の研究に比べれば、一段階も二段階も上を行っているらしい。


 その突飛さも相まって、噂話は、秋のつむじかぜのように広がった。


 弔事のために、きょう姓の官吏たちが姿を消した錘宮で、賢裔三家を目の上のこぶのように煩わしく思っていた貴族たちは、そぞろに錘主を窺い見た。


 ──火のない所に煙は立たぬ。どうも頼りないお方だと思っていたが、思い切った一面もあるのか。

 ──そんな奇策を実際に推し進めているというのなら、人望も手腕も人並みのものではないだろう。相当なやり手なのかも知れぬぞ。

 ──錘主は賢裔三家ではなく、央家から奥方を娶った。臣の扱いにおいて、伝統や家格だけを判断基準にはしないお心積もりやも。

 ──誰か錘主に、探りを入れてみた者はいないのか──……


 錘宮の風向きは、ゆるやかな変化の刻を迎えていた。



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