第一章 青天の霹靂


 果朶かだの記憶で最も古いと思われるのは、枝垂しだふじが作った木漏れ日と、先生の穏やかな足音だ。


 さくり、さくりと。草を踏み締めて近付いてきた足音が、藤の木の下で震えていた果朶かだの傍で不意に止まって、なにかを思案しているかのような声に変わる。


「……見ない子だね。それに、珍しい色の髪をしている。夜明けの太陽のような金色だ」


 果朶は──否、当時はその名すら持たなかった少年は、ぼんやり頭を動かした。


 背の高い男性が、こちらを覗き込んでいた。逆光になっているせいで、顔立ちはよく分からなかったが、どことなく安心できる雰囲気があった。落ち着き払った口調がそう感じさせたのかも知れない。


異邦いほうから来たのかな。ご両親は……いや、訊くまでもなかったね。君さえ良ければ、私とともに来ないかい?」


 差し出された掌は大きくて、隅々まで力が漲っていた。



 昔々、その昔。大地に巨大な岩穴が穿うがたれて、人類はその中で誕生した。人々は、穴の斜面に家を建て、傾斜が急な岩壁を歩く代わりに家と家とを廻廊かいろうで繋ぎ、立体的な都市を造って暮らし始めた。


 穴の底には、斎湖さいこと呼ばれる湿地林があった。斎湖は、鬱蒼と生い茂った木々のせいで、昼間であっても暗がりに満ちていた。


 穴の縁には、天涯山てんがいさんが聳えていた。

 人類を睥睨するように連なった山脈は、のこぎりの歯のごとき俊峰で天を衝き、一生涯をかけたとしても越えられない天然の障壁として君臨した。

 中腹を越した頃から、反り返った崖が続く。命綱を架け替えながら登りきると、野鹿が暮らす寒冷な高地に出る。高地の先に待ち受ける絶壁は、更に険しい。越えようと試みた者は、決して生きて戻らなかった。

 にもかかわらず、まことしやかに囁かれている噂がある。曰く。


 天涯山の向こうには、すいと名付けられたこの岩穴の内とは異なる、もう一つの国がある。


 天涯山の雪解け水に運ばれて、十数年かに一度ほど、遺体が流れ着くからだった。 

 陽の光の髪を持ち、透き通るほどま白い肌をし、錘の国では作られない貴金属で飾られた、儚くも美しい亡骸が。


 錘の民は彼らのことを、異邦人、あるいは異邦の民と呼んだ。


 地歴ちれき九百五年、五月。

 有史以来初となる、生きた異邦人が発見される。


 学院に所属する若い師儒しじゅが、天涯山の麓付近で、ほとんど虫の息となっていた少年を見付けたのだ。

 少年は、ひどい熱を出していた。後になって、大腿骨だいたいこつと肋骨も折れていたと分かった。草の汁と土ぼこりにまみれていても、少年の髪や目が、錘の民のような黒色でないことは明らかだった。


 半年と少しかかって、少年は緩やかに回復した。自力で歩けるようになる頃には、彼が一切の記憶を失っていることは周知の事実となっていた。


 錘の戸籍を与えるのに際して、少年は、歯の生え具合から七歳だと目された。果てにある山脈の、藤のえだのたもとにいたから、果朶かだとその名を付けられた。


 そして、地歴九百二十一年。陽射しが熱を帯び始める、六月──……



「実に疲れたのだ」

「疲れたのだ」

「今にも上の瞼と下の瞼がくっついて、眠りに落ちてしまいそうなのだ」

「しまいそうなのだ」

「足だって棒のようで、歩くのさえ億劫なのだ」

「億劫なのだ。ゆえに果朶、僕たちを背負って行って欲しいのだ」

「欲しいのだ」


 淡々と台詞を発していた側と、同じく淡々とその台詞を木霊させていた側が、唐突に反転した。果朶は呆れて背後を睨んだ。


「なに寝ぼけたこと言ってんの? こんなに小柄でか弱い俺が、育ち盛りの十三歳の野郎どもを、二人も背負ってやれるわけないでしょ? ただでさえ重たい綺羅晶きらしょう背負ってんのに」


 すっぱりと切り捨てられて、淡々と会話し合っていた二人──互いに瓜二つの顔立ちをした少年たちは、無表情に震えあがった。塩だけで味を付けたように淡白な顔を伏せると、いかにも怯えていますと言わんばかりに自らの肩を抱く。


「あな恐ろしや。美人に睨まれると非常に迫力があるのだ」

「迫力があるのだ」

「癖になるのだ。それに、自分でか弱いとか言っちゃうあたり、果朶はやっぱり流石なのだ」

「流石なのだ」


 恐ろしいと話す割には、こちらをからかうようなことを言う。

 果朶は軽く嘆息した。果朶のことを流石と言うが、十も年上の果朶に向かって言いたい放題言っている彼らもまた、大概に流石だ。

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