錘宮すいぐうに勤める下女の子だという彼女は、半年前に果朶かだと会うまで、文字を一切知らなかった。


 それが、今や。文人墨客ぶんじんぼっかくならばそらんじているのが当然といわれる、この国の成り立ちを表した錘国史詩すいこくししを、終いまで書くほどになっているとは。


「すごいじゃん。やっぱあんた呑み込み早いね。一つも誤字してないし」


 称賛する台詞には、尊敬の念が滲み出た。自分が教えたものを吸収してくれたことへの、誇らしさと感動も。


 少女は、へへっと気の抜けた声を出す。頬が嬉し気に赤らんでいた。

「いっぱい練習したんだもの。それに、あにさまが言ったんでしょう? 算学さんがくの時間を取りたいなら、錘国史詩は完璧にしてくるようにって」


 少女がここに来られるのは早朝のみだ。

 けれども果朶かだの早起きは、毎日のことではない。気象望きしょうぼうの当番でない日は、星観望せいかんぼうの担当に当たっている。朝食の直前まで寝ていないと身が持たない。

 限られた時間を有効に使うため、そう言いはしたものの、本当にやり遂げる可能性は半々だと思っていた。


「……それじゃあ、あんたの頑張りに免じて。今日は、面白い問題を出してあげる」


 果朶は、白木蓮の木の根元に、いくつかの図形を書き込んでいく。見上げるほどの白木蓮は、絹のような花をふつりふつりと咲かせている。


 目を輝かせて果朶の指先を見守っていた少女だが、図形が複雑さを増すにつれ、頬の辺りを引き攣らせた。


「……ねぇ、あにさま。それ、ちょっと難し過ぎない? 本当に私に解けるの?」


「もちろん。あんたの頭なら余裕なんじゃない? 今までに教えた公理だけで十分解ける。ただ、その公理が使える場所をうまく作ってやる必要はあるけどね」


 あえて、挑発するように言ってやる。

 とたん、少女の瞳に爛々とした炎が宿った。この少女は焚き付けられた方がやる気を出すと、果朶はしっかり把握していた。

 悪く言えば単純な、良く言えば素直な教え子は、前のめりになって問題を解き始める。

 果朶は、白木蓮の幹にもたれて空を見上げた。


 ぴちぴちと囀りながら、小鳥の群れが天涯山てんがいさんへと飛び去っていく。


 羨ましい、と果朶かだは思う。自分にも羽が欲しい。そうすれば鳥のように空を駆けて、峻厳な山並みを超えられる。未だかつて踏破した者はいないとされる高峰の、その向こうに広がる大地を見られる。──かつて、果朶が暮らしていたはずの大地を。


「やっぱり、あにさまはすごいなぁ」


 ぽつりと呟きが耳に届いた。

 果朶はふと我に返った。計算の手を止めた少女が、こちらをじっと見つめていた。


「こんな問題が作れちゃうくらい賢くて、色んなことを知っている。しかも、学院に通ってて、汽界きかい游子ゆうしの勉強までしてるなんて。いいなあ、天才じゃん」

 しみじみとした口調だった。

 果朶は軽く肩を竦めた。

「当たり前でしょ? 俺は天才じゃないといけない。そうでないと、俺を拾ってくれた先生に顔向けが出来ないし、それに」

 続く言葉を言いかけて、果朶ははたと口を噤んだ。不意に怖くなったのだ。


 こんなことを口にしたら、笑われてしまうのではないか。聡明なこの子には、果朶の夢がいかに無謀に聞こえることか。


 少女はきょとんと首を傾げた。嘲りや侮蔑の色を知らない、まるで無垢な瞳をしていた。


「それに、何?」


 果朶の膝に影が落ちた。白木蓮が光を受けて、そのすんなりとした枝と花を、黒々と投影したのだ。


 ──日の出の刻だ。


 天涯山に昇った朝陽が、芽吹きの沃野よくやを隅々まで照らし出す。目も眩まんばかりの輝きで、菫色をした空を燃やすように洗い上げ、ごく淡い水色へ変えていく。


「……夢があるんだ」


 この光景を見る度に、果朶は思う。きっと世界には果てなどなく、人々が望むのならば、どこまでも進んでいけると。


「いつか俺は空を飛びたい。空を飛んで、天涯山の向こうの大地を見たい。だから、そのための道具を学院で開発したい。そんなのって、天才じゃないとできないじゃん?」

 勇気を奮った果朶が一息に言い切ると、少女は目を見開いた。


「すごい! あにさまならきっとやり遂げてみせるに違いないわ。それに、空からの眺めって、きっと素敵なんだろうなぁ」


 お世辞には聞こえなかった。果朶がいつかは空を飛ぶための道具を作ると、心底信じて疑っていない声だった。


 果朶の頬が、面映ゆさのあまり綻ぶ。少女が請け合ってくれるなら、夢は夢で終わらないかも知れない。不思議と、そう信じられた。




 瑞々しい希望に満ち溢れた日々だった。

 もう、十年も前のことだ。

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