3
それが、今や。
「すごいじゃん。やっぱあんた呑み込み早いね。一つも誤字してないし」
称賛する台詞には、尊敬の念が滲み出た。自分が教えたものを吸収してくれたことへの、誇らしさと感動も。
少女は、へへっと気の抜けた声を出す。頬が嬉し気に赤らんでいた。
「いっぱい練習したんだもの。それに、あにさまが言ったんでしょう?
少女がここに来られるのは早朝のみだ。
けれども
限られた時間を有効に使うため、そう言いはしたものの、本当にやり遂げる可能性は半々だと思っていた。
「……それじゃあ、あんたの頑張りに免じて。今日は、面白い問題を出してあげる」
果朶は、白木蓮の木の根元に、いくつかの図形を書き込んでいく。見上げるほどの白木蓮は、絹のような花をふつりふつりと咲かせている。
目を輝かせて果朶の指先を見守っていた少女だが、図形が複雑さを増すにつれ、頬の辺りを引き攣らせた。
「……ねぇ、あにさま。それ、ちょっと難し過ぎない? 本当に私に解けるの?」
「もちろん。あんたの頭なら余裕なんじゃない? 今までに教えた公理だけで十分解ける。ただ、その公理が使える場所をうまく作ってやる必要はあるけどね」
あえて、挑発するように言ってやる。
とたん、少女の瞳に爛々とした炎が宿った。この少女は焚き付けられた方がやる気を出すと、果朶はしっかり把握していた。
悪く言えば単純な、良く言えば素直な教え子は、前のめりになって問題を解き始める。
果朶は、白木蓮の幹にもたれて空を見上げた。
ぴちぴちと囀りながら、小鳥の群れが
羨ましい、と
「やっぱり、あにさまはすごいなぁ」
ぽつりと呟きが耳に届いた。
果朶はふと我に返った。計算の手を止めた少女が、こちらをじっと見つめていた。
「こんな問題が作れちゃうくらい賢くて、色んなことを知っている。しかも、学院に通ってて、
しみじみとした口調だった。
果朶は軽く肩を竦めた。
「当たり前でしょ? 俺は天才じゃないといけない。そうでないと、俺を拾ってくれた先生に顔向けが出来ないし、それに」
続く言葉を言いかけて、果朶ははたと口を噤んだ。不意に怖くなったのだ。
こんなことを口にしたら、笑われてしまうのではないか。聡明なこの子には、果朶の夢がいかに無謀に聞こえることか。
少女はきょとんと首を傾げた。嘲りや侮蔑の色を知らない、まるで無垢な瞳をしていた。
「それに、何?」
果朶の膝に影が落ちた。白木蓮が光を受けて、そのすんなりとした枝と花を、黒々と投影したのだ。
──日の出の刻だ。
天涯山に昇った朝陽が、芽吹きの
「……夢があるんだ」
この光景を見る度に、果朶は思う。きっと世界には果てなどなく、人々が望むのならば、どこまでも進んでいけると。
「いつか俺は空を飛びたい。空を飛んで、天涯山の向こうの大地を見たい。だから、そのための道具を学院で開発したい。そんなのって、天才じゃないとできないじゃん?」
勇気を奮った果朶が一息に言い切ると、少女は目を見開いた。
「すごい! あにさまならきっとやり遂げてみせるに違いないわ。それに、空からの眺めって、きっと素敵なんだろうなぁ」
お世辞には聞こえなかった。果朶がいつかは空を飛ぶための道具を作ると、心底信じて疑っていない声だった。
果朶の頬が、面映ゆさのあまり綻ぶ。少女が請け合ってくれるなら、夢は夢で終わらないかも知れない。不思議と、そう信じられた。
瑞々しい希望に満ち溢れた日々だった。
もう、十年も前のことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます