「かしこまりやした。御酒ごしゅなどは如何しやすか」

「ううん、大丈夫。代わりにお茶を二つ、お願い」

 果朶かだ雨禾うかも、これから夜勤だ。雨禾は綺羅きらしょうりではないが、不夜ふやじょう通りこと紅灯こうとう廻廊かいろうで、娼婦たちの付き人をしている。

 承知しやしたと頷いて、若い給仕は去って行った。


 食糧は、そのすべてが禁苑きんえんから卸される。禁苑は、天涯山てんがいさんの麓に広がる耕作地だ。ところどころは牧場や養魚池になっていて、牛豚が草を食んでいたり、鰤や鱒が跳ねていたりする。

 学院寮は禁苑からほど近く、果朶かだはいつも、風にそよぐ稲穂の波を窓から遠目に眺めていた。


 食事は早々に運ばれてきた。


 果朶が頼んだ蒸かし芋の胡椒和えは、読んで字のごとく、ごろりとしたじゃがいもと燻豚ベーコンを蒸かして、塩胡椒を振ったものだ。少ない量でも腹に溜まるのがありがたい。


 酸菜魚スァンツァイユーは、花椒ホアジャオの風味が沁み込んだ出汁つゆで、白身魚とからし菜を煮たものだ。ただでさえぴりりと痺れる花椒に加え、赤唐辛子をふんだんに散らしているので、湯気にすら辛さが滲んでいる。

 食べてはいないにも拘わらず、条件反射で滲んだ涙を指先で拭った果朶を見て、雨禾うかが興味深げに呟いた。

「果朶ってさ。髪さえ黒く染めちゃえば、普通のすいの民に見えるけど。唐辛子とか苦手なところは、ちゃんと異邦人なんだなって思うよ」

 気を悪くしたらごめんね、と付け足す雨禾に、果朶は首を横に振る。

 だいいち、旧友のその言葉は、もっともな意見だった。


「ね。自分でも不思議だよ。みんなが普通に食べてるもの、いざ口に入れてみたら舌がひりひりして呑み込めないし。身を持って知ってても、未だにぴんと来てないくらい」

 喉の奥で笑った果朶は、蒸かし芋に箸を入れる。薄皮がぷつりと弾けて、ほくほくした実が覗いた。

「なんだか、すごいね。果朶の中には、錘の国に来てからの記憶しかないけれど。身体だけは、異邦にいた時のことをちゃんと覚えてくれてるなんて」

 ──身体だけは。

 雨禾の言葉に、果朶はふと手を止めた。


 自分の足元にある廻廊が、それを形作っている游子ゆうしたちが、ほどけてばらばらになっていく心地がした。


 昔から、果朶は時折、途方もない心許なさに襲われる。

 ここはどこか、踏みしめているものはなにか。果朶とは一体何者なのか、この肉体がうつつにあるのは真実か。すべてが分からなくなって、目の前の光景が幻と成り果てて、大地の底まで沈んでいくような錯覚に捉われる。

 そして、決まって、一つの願いが浮かび上がる。

 満ちてみたい。

 身体だけが見て、聞いて、知っていること。記憶との間にある、どうしようもない空白。それを埋めて、すみずみまで満ち満ちて、自分はここに根付いていると、骨の髄が震えるほどに感じたい。心許なさから解放されたい。


 ──だから、空を飛びたいのだと。


 天涯山を越えることを夢見た日々を、久しぶりに思い出した。



 紅灯廻廊に向かう雨禾とは、菜館の前で解散した。


 細い階段をいくつか下り、垢ぬけない舞踏場のような佇まいをした組合が廻廊の先に見えたところで、さあっと雨が降り出した。

 霧のように細かな雨滴が、皮膚にしっとりまとわりつく。果朶は虹彩に力を込めた。銀の游子ゆうしが、あちこちに舞っている。

 舞いながら、落ちていく。核となる游子の周りに、引き寄せられた小さな游子が、九つか八つほど。

 下手をすれば自宅のそれより出入りしている組合の扉を開けて、けれども果朶は眉をひそめた。


「……もしかして、なんかあった?」


 妙に周りが騒がしい。しかもやけに人が多い。

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