16


 窓から吹き込んでくる風が、涼しさよりも、火照ほてりをもたらす頃になった。

 果朶かだは、額に滲んだ汗を拭う。

 物質を構成する游子ゆうしの動きは、気温が高いほど活発になる。

 夜と昼ならば、昼が。

 冬と夏ならば、夏が。


 虹彩こうさいに力を込めると、あたり一面、青い游子ゆうしが浮かんでいるのが見えた。風を、大気を、構成している游子たちだ。

 彼らは細かく震えながら、砂でできた河のように、果朶かだの前をゆったりと流れていく。


「はい、毎度あり。確かに、今月分の賃料をお預かりしましたよ。今後ともまたよしなに」


 玄関先から元気な声が聞こえてきて、果朶ははたと我に返った。

 目の前に広がっているのは、昼下がりの狭い居間だ。

 正面にある板壁は剥き出しで、数十枚の白い紙が、びょうで縫い留められている。紙にはそれぞれ、種類の異なる鳥たちが、羽毛の先にいたるまで丁寧に模写してあった。


 家賃を集めにきた貸主の応対を終えた雨禾うかが、やはり汗を拭いながら、果朶のいる居間へと戻ってくる。そして、前髪の下の目を輝かせた。


「おお、また新しい絵ができてる。今日のはなに?」


 果朶は手元に目を落とした。

 紙の中に、小さな鳥が留まっている。

 炭筆たんぴつだけで描いたので、色は黒と白のみだが、ぷくりと膨れた小さな身体を忠実に表現できた、と思う。


四十雀しじゅうから


 答えて、果朶は立ち上がった。炭筆たんぴつで汚れた手を払い、四十雀しじゅうからを描いた紙を机に置くと、寝室として使っている奥の間に足を向ける。


 牀榻しんだいの下の物入れから、両手に乗るほどの巾着包みを取り出して、長袍うわぎのかくしに放り込んだ。


「ちょっと、そこまで出かけてくる」


 通り過ぎざま声を掛けると、雨禾うかは振り返って微笑んだ。

 彼は、果朶が放置した四十雀の絵を、壁に留めているところだった。


「行ってらっしゃい。気を付けてね」


 行き先は聞かれなかった。月に一度、家賃を納め終えた後、果朶は決まってそこに出掛けていくからだ。


 扉を開けると、廻廊かいろうの少し先で、露天の煙草売りが暇そうに欠伸をしているのが目に入った。

 ここ美蘭廻廊めいらんかいろうは、並びのほとんどが民家である。昼間は閑散としがちなので、商売上がったりだろう。


 綺羅晶きらしょう掘りは、定まった休みを持たない。

 給料は、採掘した綺羅晶に応じての日払いで、綺羅晶掘りは好きに休みをとっていた。果朶は、大家が家賃を集める日か、体調が悪い時くらいしか休まない。


 下の廻廊へと繋がる階段を下ったところで、軽やかな足音が聞こえてきた。気付かないふりで進んでいると、近付いてきた足音は、果朶の前に回り込む。

「こんにちは! 果朶さま、今日もとってもお綺麗ですね。太陽の下で見る果朶さまは、白い肌がより澄んで、雪をまとっているみたいです。私と結婚しませんか?」

「しつこい、しない」


 果朶は淡々と断った。

 この少女の求婚に、慣れてしまっている自分がいた。


「大切なものを失わないためにあえて聞くけど、あんた、どうしてここにいるわけ? 休みだって、俺は教えてないはずだけど」

華々げげさんと慈々じじさんに伺いました! それから、りんさんが、果朶さまは昼過ぎにはお出かけになるかも知れないと」


 向日葵ひまわりのような笑みを浮かべて、悪びれずに彗翅は言う。今日は、淡い梔子くちなし色の上衣に、ま白い下裳を合わせている。


 はきはき喋る明るい彗翅すいしに、綺羅晶掘りたちは好感を抱いていた。彼らのせいで、果朶の動きは彗翅にほとんど筒抜けだ。教えないよう言っていても、彗翅も彗翅で、誘導尋問のような訊き方をする。


「いい加減にやめてくれない。錘宮すいぐうの書記官って、一綺羅晶掘りに付きまとってられるほど、暇な職業だったわけ?」

「綺羅晶の仕入れ先を確保するまで、通常業務は、一部免除されています」

「へぇ。それ、他の書記官の仕事を増やしてるんじゃない? なおのこと、俺じゃない綺羅晶掘りと交渉すべきだと思うけど」


 彗翅は朗らかに笑んだまま、あっさりと首を横に振った。

「ですが同僚たちは、私の不在を喜んでいると思いますよ」


 虚を突かれた心地になって、果朶は、彗翅の横顔を見た。

 ──賢裔三家けんえいさんけの出身で、十七歳で、しかも女性の一等書記官。

 やっかむ者は、少なからずいるだろう。


 だが、慰めてやるほど仲良くなった覚えはない。


「なるほどね。じゃあ、俺は用事があるから」

 いきなり足を止めた果朶に、彗翅は怪訝な表情になった。

「用事って……ええと、ここで、ですか?」


 いくつもの階段を下った果朶と彗翅は、いつしか、うら寂しい廻廊に立っていた。板壁が崩れた民家や、扉のひしゃげた物置小屋が並んでいる。


「そ。だからさ、あんたいい加減帰ってくれる? 個人的な用にまで、付いて来られたくないんだよね」


 果朶はにべない言い方をしたが、彗翅は逡巡すらしなかった。


「では、ここでお待ちしますね! どうぞ、用を済まされて下さい」

 そう言うと、物わかりが良いでしょうと言わんばかりに胸を張って果朶を見上げる。

 言い争うのも面倒で、果朶は深々と息をついた。


「……好きにすれば」

 言い置いて、廻廊脇のとある建物の戸を叩く。


 民家にしてはいささか大きく、店にしては変哲に乏しい建物だった。あえて言うなら、建材の傷みが少ないくらいだ。


 おう、と。低い声が答えたので、果朶は建物の扉を開けた。


 屋内は薄暗い。雑然と卓が並び、その上に賭け道具の賽子さいころや枡が転がっている。

 最奥にある卓の前に、痩せた中年男が座っていた。

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