「おや、ご婦人。彼とお知り合いだったとは、驚いたよ」


 こうの口調は、ごく穏やかで丁寧だった。

 ついさっき、下層域の民のことを無益な穀潰しと切り捨てていた人物とは思えない。

「我々は、彼と同じ〈とうごう〉に所属する綺羅晶掘りでね。おっしゃる通り、がいそうしょうで命を落とした。悲しさのあまり、我々もしばらく別れを告げかねていたのだが、ようやく先日、気持ちの整理を付けることができた。それで今から、火葬炉まで送っていくところだよ」


 夜行の声には、近しい者を亡くしたことに対する、拭いきれないつらさが滲んでいる。

 ばあは、納得した様子で嘆息した。

「無理もないさね。誰かの死を受け入れるのは、いつだって難しい。急な別離ほど、酷なものはないよ」


 ひりつくような世間話が交わされている間中、果朶は必死に藻掻こうとした。

 恐らく今が、最後の機会だ。

 喜婆がいるということは、ここはもんの詰所だろう。詰所を越えれば、そこはもう人の行き来に乏しい荒野だ。助けを求められる相手もいない。


 けれども、どんなに力を込めても、瞼すら持ち上げられない身体では、無駄な努力でしかなかった。

 無情にも、喜婆は告げる。

「気を付けて行くんだよ。最近の雨のせいで、地盤も随分緩くなっているからねぇ」

 果朶は、夜行としゅに肩や足首を掴まれたまま、呆然とした心地で、顔を叩く雨粒を受け止めた。


 ゆらゆらと揺られながら運ばれていく内に、大地の香りはいよいよ濃くなる。生っぽい雨の匂いと混ざり合って、最早むせ返るほどだった。


 遠く、夜行が呟く声が聞こえた。

「お前が、かいを取り戻したのは誤算だった。渡しておいた青磁の香炉で、私のねりこうを毎日焚けば、お前の眼の膜は再生が不可能なほどに傷ついて、永久に汽界を失うはずだったのだがね──……」


 聴覚と嗅覚をあまねく駆使し、果朶は、現在の位置を推測した。

 夜行と咒豆の、ぬかるみを潰す時の湿った音をかんがみるに、ここは随分とさいに近い場所のようだ。

 いくら荒天であるとは言え、火葬炉に向かっているなら煙の匂いを感じるはずだが、今のところそれもない。


「錘主の飛行計画も、噂が聞こえ始めた当初は、有象無象のじゅたちを寄せ集めただけのお遊びだと笑っていられた。風向きが変わってきたのは、汽界を取り戻したお前が加わっていることを知ってからだ。このままでは、人類は、真に空を飛びかねない──……」


 不意に。

 降りしきる雨の様子が、変化した。


 これまで容赦なく身を叩いていた雨粒は、ぱらぱらとまばらに落ちてくるのみになる。

 代わりに、葉擦れの音がそこかしこから聞こえていた。


 ──斎湖だった。


 ぬかるんだ荒野を抜けて、夜行たちは、綺羅樹が鬱蒼と生い茂る広大な湿地林へと足を踏み入れたのだ。

 幾ばくもいかぬ内に、果朶の身体は一切の支えを失い、緩みきった柔らかい泥の上に投げ出された。


「────っ」

 咄嗟のことにも、当然のごとく声は出ない。


 痛みはなかった。

 ただ、ばしゃり、と泥が跳ねる大きな音が、耳のすぐ傍で聞こえたのみだ。


「──言っただろう? お前が最期を迎えるのに、最も相応しい場所に運んでやると。知識人としての品位を失い、綺羅晶掘りに成り下がったお前には、斎湖こそが似付かわしい死に場所だろう」


 遥か上から降ってくる夜行の声を聞きながら、果朶は、恐ろしいほどにとろとろとした感触を背中の下に感じていた。


 その感触は、果朶の皮膚にぴったりと密着し、徐々に這い上がってくる。


 否、果朶の側がぬかるみに沈んでいるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る