底なしの湿地林で日々採掘を行う綺羅晶掘りに、最も多いのがでいちゅうでの溺死だった。深いぬかるみに足をとられて、這い上がることもできずに埋没する。

 いざという時に備えて、綺羅樹の幹に引っ掛けて掴まるための縄は携帯しているが、空気の侵入すら許さずに身体に張り付く重たい泥に抗うことは難しかった。


「優秀な人間は、何人いても構わない。だが、卓越した才能を持つ者は、たった一人だけで良い。お前はここで死になさい。私は決して、〈奇才〉ではない自分を容易く許してしまえるような、甘ったれた凡人にはならぬだろう」


 冬の湿地に溜まった泥は、ひんやりとして静謐だ。

 仰向けに横たわっているには、天に向かって真っ直ぐ伸びる無数の綺羅樹が、涼やかにこちらを見下ろしているかのように思われた。


「さらばだ、果朶。お前と過ごした毎日は、確かに私に安らぎを与えてくれた。私の髪を見る者は、必ずと言ってもいいほど気味悪げな顔をする。お前だけだよ。私の顔を、なんのてらいもなく真っ直ぐに見上げてきたのは」


 こうの声が、足音が、遠ざかる。

 雨降る湿地に果朶を残し、錘の底から去っていく。

 最初の時とはなにもかもが真逆だと思った瞬間、一筋の涙が零れた。


 ──〈奇才〉夜行。

 威厳と慈愛に満ち溢れ、決して揺らがぬ、学院のぜったいであった人。


 彼の主張は、正しいのかも知れない。

 競争心の喪失は、向上心の終焉だ。ほどほどで良いと思った瞬間、人は皆、凡人になる。

〈異邦の天才〉と呼び称され、こくれいに敵愾心を燃やしていた予科生時代と比べると、ある種の気迫が己の中から失われたことを、果朶は確かに感じていた。

 ──それでも、と焼けつくような心で思う。


 それでも、最期にこの手に一つだけ残すとするなら、天才の座などではなくて、しょうを編むことを楽しいと感じられる心が良かった。


 知らないことを、知っていく。

 ばらばらになった欠片を組み合わせて、ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返しながら、一枚の絵を描く。

 その経験を重ねる毎に、果朶の身体の空白は、ひたひたと冷たい水で満たされていくようだった。

 指先まで漲った充足感は、果朶の背中を強く押し、いつかは天涯山を超えることができるのだと、信じさせるいしずえとなった。


 あの感覚を──……すべてを手放した無名の果朶を、素の状態で研究に引き込むことによって、すいが取り戻させてくれたあの感覚を。

 天才であることともに天秤にかけるとすれば、果たしてどちらが傾くかなど、確認するまでもない。


 錘の底に、雨が降る。

 綺羅樹の葉をばらばら鳴らして、生き物たちの密かな息吹を無数にはらんださいの土をやわらげる。


 ひんやりとした泥は、果朶の顔の上にも、やがてうっすらと膜を張った。冷え切った手足は感覚もない。


 ──息が、できない。


 ああ、命はこうやって大地へと還っていくのかと、ふと悟る。

 ──そして、なにもかもが遠くなった。



 微睡んでいる時のように意識があわいをたゆう中、果朶は確かに汽界を見ていた。


 身体を泥に浸してから、どれほど時間が経ったのか、最早しかとは思い出せない。四肢をかじかませていた冷たい土は、いつの間にか、ささやかな温もりを帯びたものに変わっていた。

 優しく果朶を包み、胎児に対してするかのように、あやして揺らす。

 ぬかるみがもたらす安心感に、果朶は微かに笑みを浮かべた。


 ──やはり、斎湖を形づくっている游子たちは、この上なく美しい。

 満天の星空を、そのまま大地に落とし込んだかに見えた。


 銀に煌めく細かな粒子が、互いに互いを引き寄せ合い、やがては大きなうねりとなって、果朶の周囲をゆったりと過ぎていく。

 それらは、水を含んで流動的になった土の粒を形づくっている游子たちなのだった。


 ところどころ、青みがかった影がある。

 もしも手を伸ばして掴み取れば、片方の掌にすっぽりと収まってしまいそうなその影は、果朶たち綺羅晶掘りが夜ごと採掘してきた綺羅晶だ。


 ふと、あることに気が付いて、果朶はついと目を眇めた。


 ──銀色の流砂の中に、揺らぎのようなものがある気がする。


 なんと称するのが適切かは分からなかった。


 ただ、透明ないなづまにも似たなにかが、地の底に向かってじぐざぐと走っている。

 それに動きを阻害された銀の遊子が奇妙な迂回や震動を見せるために、果朶の目には揺らぎとなって映るのだった。


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