23


 ──引き返す最後の機会だ、と誰かが耳元で囁いた。


 この研究は、単に結果を出せばいいだけのものではない。賢裔けんえい三家や学院の目を盗んで行われている、複雑な背景を持つものだ。


 けれども。

 まあいいか、と思ってしまった。


 なにせ誤魔化しようがないほどに、今の果朶かだは満たされている。


 ──物心がついて以来。

 果朶の中には、途方もない心許なさが渦を巻いていた。


 すべての記憶を失って、ある日突然天涯山に現れた。白い肌と、金の髪を持った少年。自分は一体、何者なのか。この肉体は現実か、この世界に根付いていると胸を張って言えるのか。

 心に空いた空白は、いつの日にか空を飛んで、異邦を臨むことを夢見ながら学院予科で学んでいる時、確かに満たされたものだった。

 渇いた荒野が水を呑む時のように、積み重なった知識と技術が、心許なさを忘れさせた。四肢に力が漲って、きっと自分の存在は確かなものだと、骨の髄から信じられた。


 長らく忘れていたその感覚を。

 果朶は今、久々に手にしている。


「あとさ、やっぱり設計図は先に作った方がいいと思う。乗り物の大きさや重さが限定されていた方が、動力だって編みやすいし──……」


 果朶の言葉を、紙と炭筆を取り出した几園きえんが熱心に書き留める。


 これから一気に忙しくなるな、と伯烏はくうが静かに呟いた。彼の顔はそれでいて、どことなく高揚していた。

 四汪しおうはもう、果朶たちを見向きもせず、一心不乱に晶汽しょうきを編み続けている。


 数刻後。

 再度地下室にやってきた最年少の一等書記官は、彼らの様子を見てとって、花が綻ぶような笑みを浮かべた。


 彼女の視線が見守る先には、活き活きと輝いている美しい綺羅晶掘りの姿があった。



 果朶の生活は一変した。


 うだるような熱気が見せた夏の夢や幻が、入れ替わり立ち代わり現れるのを見ているように、目まぐるしい日々が訪れた。


 あの日、地下室の見学を終えた後。

 若干の気まずさとともに、飛行技術開発の一助を担う旨を告げた果朶に、どこまでも食えない錘主はあっけらかんと微笑んだ。


『そうだろう、そうだろう。きっと、そう言ってくれると信じておったぞ。なにせ君は、研究を愛しているからなぁ』


 果朶は眉を跳ね上げた。この錘主はなにをもって、そう断定するのだろう。

 訝しがる気持ちが顔に出てしまったのか、果朶に肩をすくめてみせて、錘主は続けた。


『君は学院を離れた後、綺羅晶掘りという道を選んだ。職業など、他にごまんとあったにも拘わらず。心の底では、学院の研究と、どこかの部分で関わり続けていたかったのではないのかな?』


 そうだろうか。果朶はやはり、釈然としなかった。

『偶然ですよ。未経験でもすぐさまに始められて、自分が上げる成果によっては、下層域には珍しいほどの額が稼げる。選んだのは、ただそれだけの理由です』

『しかし、命の保証はない職だ』


 果朶は小鼻に皺を寄せた。

 いずれ国土が足りなくなると踏んだ時に、錘の民の結婚や出産を制限しようと考えるのではなくて、まずは天涯山を越えようとした彼の在り方は気に入っていた。しかしそれ以外の性質においては、どうにもこうにもいけ好かないと言わざるを得ない。


『当時は、死んだらそれまでだと思ってたんですよ。もう、放っておいてください』

 錘主は意に介さずに、むしろ親しげに果朶の肩を叩きさえした。

『まあまあ、そう言わずに。ともかく君の、好きなようにやってくれ』


 その言葉に応えるべく、果朶の起床は、まだ明るい三時になった。


 眠い目を擦りつつ、汗を湧かすほどの強い日差しに炙られながら、美蘭廻廊めいらんかいろうに住まう者たちが共用で使っている洗浴場を訪れる。身なりを整え、濡れ髪もそのままに、晶汽駆動車しょうきくどうしゃを捕まえて錘宮へと向かう。

 五時間にも足らない僅かな時間ではあったが、ここ数年、研究から離れていた時間を取り戻そうとするかのように、果朶は飛行技術の開発に熱中した。日付が変わる少し前には〈望淵ぼうえん〉に立ち寄って、他の綺羅晶掘りたちから遅れて斎湖に降りる。


 不満を隠そうともしないのは、華々げげ慈々じじだ。


『果朶は最近、僕たちに構ってくれないのだ。〈望淵〉にやって来るのも夜遅いし、朝だって、さっさと帰ってしまうのだ』

『さっさと帰ってしまうのだ。これは絶対、なにか隠しているに違いないのだ』

『違いないのだ』


 非難を込めて瓜二つの少年たちから見つめられ、果朶は、なに食わぬ顔で肩を竦めた。

『ああ、うん。実は、副業みたいなことを始めたんだよね。それで忙しくてさ』


 まったくの嘘でもない言い訳に、少年たちは、互いに顔を見合わせる。それから、心得たように頷き合った。


『果朶は金の亡者なのだ。綺羅晶掘りとして既にがっぽり儲けているのに、まだまだ稼ぐつもりなのだ』

『まだまだ稼ぐつもりなのだ。もしかしたら一年後には、厭朱えんじゅのようになっているかも知れないのだ』


『おやおや、ご挨拶ですなぁ。いいんですかい? せっかくこの前、つるはしを刃こぼれさせたのを、見逃してやろうと思っていたんですがねぇ』


 華々の台詞を聞き咎めた厭朱がわざとらしくそう言って、長煙管から紫煙を吐き出す。ぎょっとしたのは慈々だった。


 彼らがなにかを言うのを待たずして、扉が開いて『おはようございます! 果朶さま、結婚してください!』と、彗翅すいしが〈望淵〉に飛び込んでくる。


 彼女に綺羅晶を手渡して、果朶は、月季館に立ち寄ることなく、自宅の牀榻しんだいで泥のような眠りにつくのが常だった。

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