23
──引き返す最後の機会だ、と誰かが耳元で囁いた。
この研究は、単に結果を出せばいいだけのものではない。
けれども。
まあいいか、と思ってしまった。
なにせ誤魔化しようがないほどに、今の
──物心がついて以来。
果朶の中には、途方もない心許なさが渦を巻いていた。
すべての記憶を失って、ある日突然天涯山に現れた。白い肌と、金の髪を持った少年。自分は一体、何者なのか。この肉体は現実か、この世界に根付いていると胸を張って言えるのか。
心に空いた空白は、いつの日にか空を飛んで、異邦を臨むことを夢見ながら学院予科で学んでいる時、確かに満たされたものだった。
渇いた荒野が水を呑む時のように、積み重なった知識と技術が、心許なさを忘れさせた。四肢に力が漲って、きっと自分の存在は確かなものだと、骨の髄から信じられた。
長らく忘れていたその感覚を。
果朶は今、久々に手にしている。
「あとさ、やっぱり設計図は先に作った方がいいと思う。乗り物の大きさや重さが限定されていた方が、動力だって編みやすいし──……」
果朶の言葉を、紙と炭筆を取り出した
これから一気に忙しくなるな、と
数刻後。
再度地下室にやってきた最年少の一等書記官は、彼らの様子を見てとって、花が綻ぶような笑みを浮かべた。
彼女の視線が見守る先には、活き活きと輝いている美しい綺羅晶掘りの姿があった。
◇
果朶の生活は一変した。
うだるような熱気が見せた夏の夢や幻が、入れ替わり立ち代わり現れるのを見ているように、目まぐるしい日々が訪れた。
あの日、地下室の見学を終えた後。
若干の気まずさとともに、飛行技術開発の一助を担う旨を告げた果朶に、どこまでも食えない錘主はあっけらかんと微笑んだ。
『そうだろう、そうだろう。きっと、そう言ってくれると信じておったぞ。なにせ君は、研究を愛しているからなぁ』
果朶は眉を跳ね上げた。この錘主はなにをもって、そう断定するのだろう。
訝しがる気持ちが顔に出てしまったのか、果朶に肩をすくめてみせて、錘主は続けた。
『君は学院を離れた後、綺羅晶掘りという道を選んだ。職業など、他にごまんとあったにも拘わらず。心の底では、学院の研究と、どこかの部分で関わり続けていたかったのではないのかな?』
そうだろうか。果朶はやはり、釈然としなかった。
『偶然ですよ。未経験でもすぐさまに始められて、自分が上げる成果によっては、下層域には珍しいほどの額が稼げる。選んだのは、ただそれだけの理由です』
『しかし、命の保証はない職だ』
果朶は小鼻に皺を寄せた。
いずれ国土が足りなくなると踏んだ時に、錘の民の結婚や出産を制限しようと考えるのではなくて、まずは天涯山を越えようとした彼の在り方は気に入っていた。しかしそれ以外の性質においては、どうにもこうにもいけ好かないと言わざるを得ない。
『当時は、死んだらそれまでだと思ってたんですよ。もう、放っておいてください』
錘主は意に介さずに、むしろ親しげに果朶の肩を叩きさえした。
『まあまあ、そう言わずに。ともかく君の、好きなようにやってくれ』
その言葉に応えるべく、果朶の起床は、まだ明るい三時になった。
眠い目を擦りつつ、汗を湧かすほどの強い日差しに炙られながら、
五時間にも足らない僅かな時間ではあったが、ここ数年、研究から離れていた時間を取り戻そうとするかのように、果朶は飛行技術の開発に熱中した。日付が変わる少し前には〈
不満を隠そうともしないのは、
『果朶は最近、僕たちに構ってくれないのだ。〈望淵〉にやって来るのも夜遅いし、朝だって、さっさと帰ってしまうのだ』
『さっさと帰ってしまうのだ。これは絶対、なにか隠しているに違いないのだ』
『違いないのだ』
非難を込めて瓜二つの少年たちから見つめられ、果朶は、なに食わぬ顔で肩を竦めた。
『ああ、うん。実は、副業みたいなことを始めたんだよね。それで忙しくてさ』
まったくの嘘でもない言い訳に、少年たちは、互いに顔を見合わせる。それから、心得たように頷き合った。
『果朶は金の亡者なのだ。綺羅晶掘りとして既にがっぽり儲けているのに、まだまだ稼ぐつもりなのだ』
『まだまだ稼ぐつもりなのだ。もしかしたら一年後には、
『おやおや、ご挨拶ですなぁ。いいんですかい? せっかくこの前、つるはしを刃こぼれさせたのを、見逃してやろうと思っていたんですがねぇ』
華々の台詞を聞き咎めた厭朱がわざとらしくそう言って、長煙管から紫煙を吐き出す。ぎょっとしたのは慈々だった。
彼らがなにかを言うのを待たずして、扉が開いて『おはようございます! 果朶さま、結婚してください!』と、
彼女に綺羅晶を手渡して、果朶は、月季館に立ち寄ることなく、自宅の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます