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 いいよねぇ一類は暇だから! と、地下室にいる師儒しじゅたちに喧嘩を売るようなことを言う師儒に、果朶は顔を引きつらせた。

 周辺の師儒たちはとっくに慣れっこになっていると見えて、『二類のやつらも、お前が居なくなってせいせいしてるだろうさ』と、野次を飛ばす。


『あはは、そうかも知れないねぇ! だからさ! 空を飛べる日がきたら、僕、とんでもなくありがたいわけ。標高が高い場所も、調べられるようになるし! 分かってくれる、この高揚を? もうね、考えただけで身震いするよ!』


 そう言って、彼は実際大きく肩を震わせると、呆気に取られる果朶かだの前で、白目を剥いて倒れてしまった。


『ああ、もう。忘我ぼうがさんってば、また研究に熱中して、ご飯を食べるの忘れちゃってたんだね!』


 慌てた几園きえんが駆け寄ってきて、忘我を支えて起こしてやると、部屋の隅に置かれた仮眠用の牀榻しんだいまで連れて行く。

 忘我は意識を失ってしまったわけではなく、几園が軽食を取りに走っていくのを引き留めるために起き上がり、僕はとっても元気だよ! と主張していたが、馬鹿なことを言うなと伯烏はくうによって押し戻されていた。



 ──じりじりと焼けつく陽射しと、ゆらゆら揺れる陽炎に包まれて。


 地歴ちれき九百二十一年の八月は、そうやって過ぎていった。



 よく乾かされた木片もくへんを思わせる、しみじみとした深い香りが部屋中に満ちていた。


 果朶の頭を撫でてくれた大きな手も、その拍子に肩に触れた袖口も、同じ香りを漂わせていた。


『噂には聞いているよ。期末の実技試験では、実に素晴らしい成績を収めたというではないか。私はお前が誇らしい。これからも励み続けなさい』


 窓の外から、羽ばたく音が聞こえてくる。一羽の鳥が硝子を横切る。床の板にも、同じ形の影が落ちる。


『同僚たちも、お前のことを褒めていた。異邦の天才と称されるのも納得だ、発想の柔軟性が素晴らしい。あの優秀な予科生には、是非とも三類に来て欲しい、とも』


 翼の先端が曲線的で、羽と羽の間には隙間があるのが見てとれた。あれは懸巣かけすか、ひよどりか。

 いずれにせよ、ゆっくり飛ぶのが得意な鳥だ。


『このまま努力を欠かさなければ、二年後の卒試でも、十分希望が通るだろう。なにも案じることはない。一つ欲を言うのなら、お前が一位になるところを、それまでに見たいものだ』


 お前の才に最初に気付き、育て上げたのは私自身だ。首席になるだけの素養はあると知っている、そう請け合った先生の、才智に溢れたその眼差し。


 彫が深くて引き締まった横顔を、かく在りたいと胸高鳴らせて見上げながら頷いた、かつての自分は予科課程よかかていの四年目を終えた頃。長期休みを利用して、先生の屋敷に帰ってきた日の朝で──……


「果朶、果朶。起きるのだ」

「起きるのだ。もうそろそろ、準備を始める時間なのだ」


 不意に肩を揺す振られ、果朶は瞼を持ち上げた。


 眩しい光が飛び込んできた。目の前に、同じ型で作ったような、よく似た二つの顔がある。


 懐かしい夢を見ていたのだと気が付いて、呻くような声が漏れた。


「……ああ。もう、そんな時間? ……厭朱えんじゅは?」


「ついさっき、芙蓉廻廊ふようかいろうの倉庫に向かったのだ。そろそろ搬出を始めるから、起きた者から、合流して欲しいとのことなのだ」

 教えてくれた華々げげに生返事をし、果朶は緩慢に立ち上がった。


望淵ぼうえん〉の床では、果朶と同じように、適当な布袋を敷布にして雑魚寝をしていた綺羅晶掘きらしょうほりたちが、のろのろと起き上がり始めていた。


『八月二十三日──学院の気象望きしょうぼうによりますと天気は晴れ。風は穏やか、湿度も良好。夕方の六時半からは、予定通り花火の打ち上げが始まります──……』


 ひらりひらりと、銀色の音信蝶おんしんちょうが廻廊を飛んでいく。


 花煙節かえんせつの当日だった。


 綺羅晶掘りたちの組合〈望淵ぼうえん〉と〈東濠とうごう〉は、この祭事を滞りなく遂行すべく、昼間から準備に追われる。保管してある倉庫から花火玉を運び出し、湖柵こさく沿いの荒野に並べる。


 花火玉は、錘宮すいぐうや貴族たち、学院本科から寄贈されたものもあれば、組合が花火商から買い付けたものなど、様々だ。

 斎湖さいこから帰ってきた果朶たちは〈望淵〉で仮眠を摂って、正午過ぎから花火玉の搬出に参加するのが例年の流れとなっていた。


「気負い過ぎて、いたのかも」


 果朶はぽつりと呟いた。


 異邦の天才だともてはやされて、優秀であることが当たり前になってから。

 将来が楽しみだ、きっと素晴らしい師儒になるだろうと、言われる度に。


 欠片をぴたりと組み合わせ、一枚の絵を描き上げた時の喜びは、徐々に皮膜ひまくに似たもので覆われていくようだった。結果を出さねばならないと、常に焦りが付きまとった。


 最近になって、その膜が、ようやく剥がれて落ちていった。


「そんじゃ俺たち、先に倉庫に行ってるから」


 華々げげ慈々じじに背中を押され、果朶は、床の上で蠢いている綺羅晶掘りたちに言い置くと〈望淵〉の扉を開けた。

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