17
「これが春や夏であれば、
「本当に」
応えたのは、
紙束の端を揃える時の、たん、という音がそれに重なる。
どうやら、書類の決裁でもしているようだった。
「なにもなければ耐えられるだけの収穫はありますが、有事を乗り切る蓄えを確保するのは厳しいと言わざるを得ません。後人のためにも、やはり
最後の言葉は、
錘主がふと、物思いにふける口調になった。
「『奇才』
果朶は、はたと足を止めた。
夜行に育てられた異邦人。──それは、自分のことに他ならない。
彗翅は、錘主にあっさり応えた。……果朶が、異邦の天才であるとは知らずにいるはずの、彗翅が応えた。
「そうでしょう? 彼は、飛行技術の開発に欠かせない存在です。なんと言っても、あの
一瞬、時が止まった気がした。
白百合の香を形づくる游子でさえも、ぴたり、と
天を仰ぐと、横髪によって隠された頬の傷から、一旦は収まったはずの血が再び流れ出すのが分かった。
錘主は、しみじみと懐古を続ける。
「君は、随分と神経を遣っていたなぁ。今やすっかり学院と距離を取り、予科生だったことさえ隠している天才を、どう開発に引き入れたものかと。結局小芝居を打って、綺羅晶を譲って欲しいという交渉から始めた」
──あなたのお嫁さんになりたいんです!
──私と結婚、して下さい!
それは六月、果朶と出会って、彗翅が真っ先に叫んだ言葉。
その時と同じ少女の声が、唇が、今度は、なにも知らずに飛行技術の開発に取り組んできた果朶を、嘲笑うような台詞を吐く。
「より確実に彼を開発に引き込むためには、
時を経て、果朶はようやく腑に落ちた。
道理で、他の綺羅晶掘りと交渉するよう彗翅を
彼女は元々、『万年二位の異邦の天才』を目的にして来たのだから。
錘宮の夜の静寂に、再び濃く、白百合が香った気がした。
……──悲しむな。
……──憤るな。
自分にそう言い聞かせたのは、彗翅が採った選択は、圧倒的に正しいのだと分かっていたから。
彼女は、一等書記官だ。
錘主に、国に仕える少女だ。
そう遠くはない未来、錘の民が飢えるのを避けるためには、天涯山を超える必要があった。
人類は空を飛ばねばならず、そして、飛行技術を開発しようと思ったら、真っ先に上がってくるのが果朶の名なのだ。
果朶がかつて発明した音信蝶が、この国で唯一、自力飛行を実現した道具なのだから。
もし果朶が非協力的であるのなら、なんとかして抱き込もうと工夫するのも、国に仕える者として当然の役割だろう。
それでも、断崖から突き落とされたような心地になるのは止められなかった。
──裏切られた。
──騙された。
心の内の、最も柔らかな部分を、ぞんざいなやり方で扱われた。
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