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「これが春や夏であれば、きんえん側も随分渋ったろうからなぁ。炊き出しのための穀物など、出せはせぬ、と。──農地不足は、やはり早急に解決せねばなるまいよ」


「本当に」


 応えたのは、すいだった。

 紙束の端を揃える時の、たん、という音がそれに重なる。

 どうやら、書類の決裁でもしているようだった。


「なにもなければ耐えられるだけの収穫はありますが、有事を乗り切る蓄えを確保するのは厳しいと言わざるを得ません。後人のためにも、やはりてんがいさんを超えなければ」


 最後の言葉は、すいしゅに対する相槌というよりも、独白に近かった。


 が歩を進める毎に、廊下の空気はふわりと動いて、白百合の香をより一層濃く立ち昇らせる。

 錘主がふと、物思いにふける口調になった。


「『奇才』こうが育て上げた、異邦から来た天才──……か。君の意見に従って、引き込んだだけの価値はある」


 果朶は、はたと足を止めた。

 夜行に育てられた異邦人。──それは、自分のことに他ならない。

 彗翅は、錘主にあっさり応えた。……果朶が、異邦の天才であるとは知らずにいるはずの、彗翅が応えた。


「そうでしょう? 彼は、飛行技術の開発に欠かせない存在です。なんと言っても、あのおんしんちょうを発明した人物ですから」


 一瞬、時が止まった気がした。

 白百合の香を形づくる游子でさえも、ぴたり、とちゅうくうでその運動を止めたようだ。


 天を仰ぐと、横髪によって隠された頬の傷から、一旦は収まったはずの血が再び流れ出すのが分かった。


 錘主は、しみじみと懐古を続ける。

「君は、随分と神経を遣っていたなぁ。今やすっかり学院と距離を取り、予科生だったことさえ隠している天才を、どう開発に引き入れたものかと。結局小芝居を打って、綺羅晶を譲って欲しいという交渉から始めた」


 ──あなたのお嫁さんになりたいんです!

 ──私と結婚、して下さい!


 それは六月、果朶と出会って、彗翅が真っ先に叫んだ言葉。


 その時と同じ少女の声が、唇が、今度は、なにも知らずに飛行技術の開発に取り組んできた果朶を、嘲笑うような台詞を吐く。


「より確実に彼を開発に引き込むためには、からめ手が最善手でしたから。真っ向から頼んでも、断られる可能性の方が高かったですし」


 時を経て、果朶はようやく腑に落ちた。

 道理で、他の綺羅晶掘りと交渉するよう彗翅をさいさん諭しても、首を縦に振らないわけだ。

 彼女は元々、『万年二位の異邦の天才』を目的にして来たのだから。


 錘宮の夜の静寂に、再び濃く、白百合が香った気がした。


 ……──悲しむな。

 ……──憤るな。


 自分にそう言い聞かせたのは、彗翅が採った選択は、圧倒的に正しいのだと分かっていたから。


 彼女は、一等書記官だ。


 錘主に、国に仕える少女だ。

 そう遠くはない未来、錘の民が飢えるのを避けるためには、天涯山を超える必要があった。

 人類は空を飛ばねばならず、そして、飛行技術を開発しようと思ったら、真っ先に上がってくるのが果朶の名なのだ。


 果朶がかつて発明した音信蝶が、この国で唯一、自力飛行を実現した道具なのだから。

 もし果朶が非協力的であるのなら、なんとかして抱き込もうと工夫するのも、国に仕える者として当然の役割だろう。


 それでも、断崖から突き落とされたような心地になるのは止められなかった。


 ──裏切られた。

 ──騙された。


 心の内の、最も柔らかな部分を、ぞんざいなやり方で扱われた。


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