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「まあ、でも、……有り得ないってわけでもないのか」

 少なくともあの子、錘宮すいぐうに出入りできる身分っぽいし。そう、己に言い聞かせていると、視界の端にふわりと紫煙が流れてきた。

 果朶かだはひくりと喉を鳴らす。間が悪いことこの上ない。


「そいつぁ本当ですかい、の旦那」


 いつの間に席をたって来たのだろう。緋色の緞子どんすを持ち上げて、長煙管を手にした厭朱えんじゅが、果朶かだを覗き込んでいる。

 ごてごてと金刺繍きんししゅうが施された長袍がいとうは、まるで正月のようだった。

「丁度いいとこにお出でなすった。ここは一つ手っ取り早く、わたくしの代わりに客人の話を聞いてやってくれませんかい? 流石に手に負えませんや」


 この組合で、厭朱だけは果朶かだの経歴を知っている。

 学院は錘宮すいぐうとも関わりがあるため、厭朱が意見を求めるのも無理はなかった。


 果朶はとりあえず逃げを打った。


「そうは言うけど、厭朱。あの子、組合主と会いたいって言ったんでしょ? 俺が行っても役不足だと思うけど」


「ご心配なく、わたくしも立ち会うんでね。だいだいそこのそっくりさんたち、ずっと覗き見してたでしょう? 兄貴分として、見料けんりょうくらい納めてくだせぇ」

 穏やかな物言いだが、果朶の顔に掛かる近さでふーっと紫煙を吐き出した厭朱には、有無を言わせぬ圧がある。


 果朶は深々と嘆息した。

 仕方がない。


 ええいままよと応接室に踏み込むと、奇獣きじゅうの絵柄の掛け軸を気味悪げに眺めていたくだんの少女がこちらを振り向く。

「……え?」


 果朶はしばし、彼女のことを観察してみた。

 先ほどは気にも留めなかったが、こうして見ると、確かに質のいいものを身に付けていると分かる。


 しゃの布を重ねた上衣は、蒸し暑くなってきた近ごろでも、風通しが良さそうだ。翡翠色の下裳には、裾の辺りに精緻な桜の刺繍が施されている。白い帯には風合いの違う同色で、鳥の羽の紋様が入っていた。


 少女が呆けているのを見て取って、果朶は幾ばくか不憫になった。自分のように心ない人間とは、二度と会いたくなかったろうに。


 けれどもそれは杞憂だった。


 彼女は即座に立ち上がって、花が咲いたような笑みを浮かべた。


「ああ、嬉しい! もう一度お会いしたかったんです。実は、ちょっと期待してました。この組合に、あなたがいるんじゃないかって! 朝なのにお仕事帰りみたいだったし、くつにも泥が付いていたから、もしかして綺羅きらしょう掘りかなって見当は付いてたんです!」

 果朶が絶句していると、少女の表情がふと曇る。そして、しおらしく俯いた。

「はしゃぎ過ぎてしまいました。まずは謝らないといけません。今朝はいきなり求婚して、ご迷惑をおかけしました。気持ち悪いと思われるのも無理はないです。反省していますから、どうか許してくれませんか?」


 碌に息もつかぬほどの早口で言い切ると、果朶の顔をじっと見る。

 その迫力に流されて、果朶は、考えるより先に首を縦に振ってしまった。

 少女は顔を輝かせた。

 買ったくじが当たりであると確認し、喜ぶ子どものようだった。


「ありがとうございます! それにしても、見れば見るほど綺麗なお顔……。睫毛が合歓ねむの花みたい。冷ややかな眼差しも素敵です、やっぱりあなたに嫁ぎたい! 初対面じゃなくなりましたし、もう言ってしまって構いませんよね?」

 頬をほんのり赤く染め、きゃあきゃあ悶え始める始末である。


 果朶の心にそれまであった、彼女に対する罪悪感や憐憫が、綺麗さっぱり消えていくのが自分でも分かった。

 代わりに、危機感と確信がひたひたと湧いてくる。


 この少女、想定よりもとんでもない。


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