「路傍文化」にて

 「帰って良い」と言われても、である。

 あのおかしな空間は昭にとっては全く未知の場所。出ていこうにも、どこに進めばいいのかわからない。


 呆気にとられたままの昭は、どこからか現れた白衣を着た老若男女に導かれるように案内された。のたうつコードを乗り越えて、いくつもの電子機器の峡谷を抜けて、無事に方向感覚を失う昭。


 その果てにメタリックな扉に辿り着き、それが音もなく開いたことで昭はようやくここが屋内であることに確信を持てたほどだ。

 そして段ボールが散乱している、さっぱり整理されていない廊下を進みエレベーターに乗る。目指す先は――上。という事は地下にいたのだろうと昭はあたりをつけた。


 エレベーターにも複数の白衣を着た、比較的若い方の男女が同行してくる。監視されている、とは思わずに昭はこんなことを考えていた。


(こいつら、クソ親父の部下なのか……?)


 と。


 一連の流れを振り返ってみると、そう考えるのが自然なようではあるが、あの父親に部下がいる。それがどうにも昭は腑に落ちなかったのである。


 逆に連れ込まれた場所のおかしさは、具体的な形を成していなかったことが大きかったのだろう。

 昭がそ「あの父親に部下がいる」という、わかりやすい疑問にこだわってしまうのも仕方のない部分はあるわけだ。


 さらに理由を探すのなら、実のところ昭は父親が何の仕事をしているのか知らないのである。そしてめったに家に帰ってこない。

 これでは父親への信用は下がる一方になっても仕方のないところだろう。


 そして白衣に送り出されるままに外に出てみると、どうやら今は夕焼けがまぶしい時間帯であったらしい。夕陽に手をかざしながら周囲を見渡せば、そこは昭のよく知る駅前であることにも気付くことが出来た。


 さらに、この場所は昭が車と接触した場所にほど近い場所であることも思い出される。もっとも昭が事故に遭ったのは裏路地であって、こんな堂々とした「駅前」だったわけでは無い。


 つまり――地下に怪しげな施設がある建物はきっぱりと「駅前」にあることになる。

 そこまで理解が及んだ時、昭は急に足元が揺らぐような気に……はならなかった。


 昭にはそんな繊細さは無いのである。

 それよりも目の前に滑り込んできたタクシーに興奮していた。めったに乗ることのないタクシーに乗れるらしいという事だけで十分興奮できる育ちなのである。


 白衣から何事かを言いつかった運転手ドライバーが車を滑るように走らせて、昭は帰路に着いた。

 大事な情報を置き去りにして。


                ~・~


 昭がタクシーに乗り慣れていないのは、実は住んでいるアパートにも理由があった。昭の、というか七津角家は文化住宅――一般に言われるところのアパートにあることが理由の一つだろう。


 アパート住まいに問題があるわけでは無く、問題はその立地だ。

 アパートがある場所は、築五〇年は若造扱いの由緒正しい建物が軒を連ねる区画なのである。道幅も狭く普通の乗用車でも乗り付けるのに苦労するような環境だ。


 これがタクシーを利用しにくい理由の一つではあるだろう。

 さらに、このアパートは何とも説明しづらい建て方になっている。


 何しろ素直に通りに面するようには建てられていない。

 各部屋の入り口が通りに面するように建てられていないと言うべきか。


 各部屋のドアがある面を正面とするなら、その左端が通りに接しているだけで、右側の部屋に向かうとなれば、まるで洞窟の奥に向かうような趣になってしまうのである。


 言うまでもない事だが、隣接する建物は人も通れない程に張り付くように建てられているから、日が差し込むこともない。一応南向きではあるのだが……。


 こういうアパートであるので、通りを普通に進んでいても簡単に見過ごしてしまう。普通の住宅とは区別がつきにくいのである。

 しかもこのアパート、名前を「路傍文化」と銘打っているわけで、カーナビを使うにしても先入観というものをクリアしなければ迷う事請け合い。


 そんな「路傍文化アパート」である。夏の日であるのに昭が帰りついたのは、周囲がすっかりと夜色になってからだった。


                 ~・~


「改造!? つまり昭は人間じゃないってこと?」


 と、昭の報告に至極真っ当な反応を見せたのは同じアパートに住む、棟尾篁である。二人はまず幼馴染みと言っても良いぐらいの長い付き合いであった。

 二人が小学生低学年の時に同時に入居して、お互いに助け合って成長してきた。


 いや、ただひたすらに助けられていたのは七津角家と言っても良いだろう。

 篁の母親、昌子に生活全般お世話になっており、今も昌子が用意してくれたカレイの煮つけを主菜にした夕食を、昭は夢中になって口に放り込んでいる。


 そしてそれを運んできたのが娘の篁というわけだ。

 ちなみに七津角家は204号室で、棟尾家は105号室。時刻はほぼ午後八時といったところ。別家庭であれば、面倒を見るのもなかなか面倒な時間帯だ。


 しかし、それについて篁は不満も無いようで、昭の夕食を運んでくると同時に、食パン一斤と、マーマレードの瓶を一緒に持ってきている辺り、食事の付き合いというには過剰なカロリーを摂取するつもりもあるらしい。


 そのカロリーの行きつく先が胸部に集中的に作用している。

 それが篁最大の特徴と言い切っても良いだろう。

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