第1話 わたしはアンデュロメイア

 南海らしい元気な太陽と、潮の香りを含んだ風。

 すだれを通り抜けて入ってくる、島の空気。


 ゼフィリアは今日もいい天気。


 ゼフィリアは南の海にぽつんと浮かぶ、この星で一番小さな陸地。青い空と青い海。緑の木々と白い砂浜に囲まれた、小さな小さな島。


 そんなゼフィリアで、わたしたちはのんびりのほほんと暮らしています。


 暮らして、いるのですが……。


「み、水……」


 板間にすだれ、木の柱。和風なのですけど頭の中の記憶のものとはところどころ細部が違う、わたしのお部屋。


 その自室の床を、わたしは今四つんばいになって這っている真っ最中。


 だだっ広いお部屋の真ん中に敷かれたお布団から、だだっ広いお部屋の隅にある水瓶まで、腰まで伸びた髪を腕に絡ませながら、ズルズルと体を引きずって。


 申し遅れました。


 わたしはアンデュロメイア。


 現在、わたしは数えで六歳。この世界の人間としては、もう成体。つまりは一人で生きていける歳、なのですけれど……。


「はあ、ひい……」


 ようやく水瓶にたどり着き、木の柄杓で水を飲んで、やっとひと息。水瓶を覗き込んで見えるのは、水面に映るわたしの顔。


 はねっ毛でまとまらない金髪に青い瞳。

 日焼けとは無縁の白い肌。

 猫背が基本姿勢の痩せた体。


 白い胸巻と着物のような腰巻に細い帯を締めた、ゼフィリアの服装。

 

 いつものわたし。


「うう、ダルいです……」


 へばりつくように水瓶を抱きしめて、はあとため息。なんでこんなに辛いのか、風邪を引いたとか病気になったとかではありません。


 そう、わたしは超虚弱。


 とにかく体力が皆無。お部屋を歩き回るだけでも重労働。自室で野垂れ死んでしまうレベルで虚弱なのです。


 それはともかくお布団まで戻りませんと、と気を取り直したところで、お外に人の気配を感じました。その気配はお庭から縁側に上がり、すだれに人影を作り、


「アン、戻りましたよ」


 すだれをめくって外の光と一緒に入ってきたのは、わたしのお母さま。


 ゼフィリアのヘクティナレイアさま。


 サラサラストレートな金髪に青い瞳。

 小麦色の健康的な肌に、うっすら割れた腹筋。


 サラシのような胸巻と長い腰巻に細い帯を締めた、わたしと同じゼフィリアの服装。


 見た目的には上半身をはだけさせた和服のそれなのですが、帯締めの角度や模様が違うだけで熱帯っぽい雰囲気になるから不思議なものです。


 お母さまは水瓶にへばりつくわたしに首を傾げ、それから、いつも通りの優しい笑顔で、


「さあ、昼食にしましょう」







 自室で向かい合い正座するわたしとお母さま。

 わたしたち母娘、二人の時間。


 お母さまは島の偉い人。


 お母さまは海守という人たちをまとめる、守主というお役目を任されています。


 海守というのは漁師とはちょっと違っていまして、近海の生態系や地質調査、つまりは海の健康管理が主なお仕事。


 そんな凄くて偉いお母さまがわたしは大好きなのですけれど、この時間は憂鬱なのです。


 食事が載ったお膳を前に、自室でお母さまと過ごす二人の時間。


 対面から聞こえるのはバリバリジャキジャキという、魚を咀嚼する音。お母さまは鉄製の箸で大きなお魚をバツンバツンと刻み、骨だろうとヒレだろうとものともせず、モリモリ食べていきます。


 そう、この世界の人間は超強いのです。わたしの頭の中の記憶の人類とは肉体的な能力がもう桁違い。


 片手で大岩を持ち上げ、小さなお山なら文字通りひとっ跳びで飛び越えてしまう。陸上最強、獣の中の獣。食物連鎖の絶対頂点。それがこの世界の人間。


 筋肉は全てを解決してくれます。


 なのですけれど……、


「アン、たくさん食べねば強くなれませんよ」

「うう、もうしわけありません……」


 わたしの目の前にあるのは一人用のお膳。無骨な意匠の灰色の平皿、その上に載っているのは一匹のお魚。


 はい、めっちゃ生魚なのです。


 頭の中の記憶では、食事ってもっとこう、楽しくておいしいものの筈なのですが、この世界には料理という文化が無いのです。


 理由は簡単、無駄ですので。


 この世界の人間にとって、食事というのは栄養補給と自らの強さを誇示するための行為でしかありません。


 たまに遊びや嗜好で草や果物を口に入れますが、基本は完全肉食。ていうか魚食。魚を器に載せる文化が生まれただけでも驚きの獣っぷり。


 海に行けば魚なんていくらでも獲れますし、それを可能にする筋肉が、この世界の人たちには備わっているのです。


 それはさておき、わたしは食事と向き合わねばなりません。意を決し、金属の箸で魚の身を切り、口の中へ。


 バリっと生皮を歯で噛み抜く触感、ドロリと舌の上に染み込む悶絶生臭い血。生温かい肉のぐちゃぐちゃとした噛み応えにえずき、口の中にグサグサ刺さる大骨小骨に悪戦苦闘。


 口の中に広がる磯臭さと生臭さに我慢しながら、やっとのことで喉に押し込んで……。


 うぐう、無理ぃ……。


 やっぱりこんなの食事じゃありません。


 いえ、これは食事です。お母さまが用意したちゃんとした食事なのです。がっつり食べてわたしも強くなるのです。分かってはいるのです。分かってはいるのですが、


 箸を持った右手が全然動いてくれないのです……。


「アン……」

「ううぅ、もうしわけありません……」


 口を押さえて俯くわたしに、お母さまは悲しげなお顔で首を振りました。結局、ひと口しか食べられなくて、残りをお母さまに食べてもらう始末。


 わたしだってこの世界の人間で、ド強いお母さまが生んでくれた娘なのです。「きっといつか慣れるはず」と挑み続けて、気付けばもう六年。全っっ然慣れません。


 わたしの頭の中の常識がこんなの人の食べ物ではないと大声で叫んで拒否をして、体がそれに従ってしまうのです。


「今日も体調が優れないようですね。部屋で休んでいるように。私は海に出ます」

「はい、いってらっしゃいませ……」


 食事の片付けを終え、お母さまはお庭こと修練場へ。すだれの向こうに見えるのは、金属で出来た槍を片手に集まる海守の女性たち。


 海守の人たちは誰もわたしに目を向けてくれません。誰もわたしを気にしてくれません。


 それも当然。本来ならばわたしももう役目に就く歳なのですが、肉が弱いわたしには出来ることが何もないのです。


 この世界の人間は頭の中の人類に比べ、肉体的にも精神的にもその成長が超早い生物。三歳になれば海に出て魚を獲り、四歳になれば読み書き計算を覚える。


 音楽や運動、生きる悦びは日々の生活の中で見付けるのが当たり前。人と人との間で身に付けるのが当たり前。


 でも、わたしは当たり前の輪の中に、どうしても入れずにいるのです。


 わたしもその輪の中に入りたい、いつかお母さまのような海守に、と日々思ってはいるのですが、もう完全に諦めムード。


 だって、わたしは泳げないのです。


 海に覆われたこの星では、人は泳げて当たり前なのに。小さい頃海で溺れて以来、海に入ることを禁じられたのです。そんな訳で、わたしはこの世界で唯一のカナヅチにして役立たず。


 そんなことを考えながらわたしがすだれの向こうを眺めていると、修練場の人たちの姿が一瞬にして消えました。皆、海に向かったのです。あとに残るのは石畳の静寂と、お部屋に座るわたしだけ。


 このまま部屋にこもり、お母さまの帰りをただじっと待ち続ける。それがわたしの毎日。


 わたしはお布団をひき直し、ぱたんと倒れ込みました。


 わたしの人生は今のところ殆どこのお布団の上。ごろんと仰向けになって視界に入るのは、生まれた時から眺めてきて見飽きた天井。


 当たり前ですが、お魚ひと口じゃお腹一杯になりません。空腹を水でごまかし我慢する、それが日常。でも、わたしだってお母さまのようになりたい。我慢して生魚をたくさん食べ続ければ、いつかわたしもお母さまのようになれるのでしょうか。


 生まれてから六年間、ずっと悩んできたのです。


 頭の中の記憶のことを話して、この世界の人にお料理のことを知ってもらったら、わたしの生活は一変するのかもしれません。


 でも、もし受け入れてもらえなかったら。肉が弱いだけでなく、頭までおかしいと思われたら。そう考えると恐くて、とても打ち明ける気にならないのです。


 島の気温も相まって、身体は熱くてダルいのですが、全然眠くはなりません。はあ、とため息をつき、わたしは瞼を閉じました。


 夕立が上がって日が暮れる頃には、もう一度食事をしなければならないのです。大好きなお母さまと、超苦手な生魚で。


 南海らしい元気な太陽と、潮の香りを含んだ風。

 すだれを通り抜けて入ってくる、島の空気。


 ゼフィリアは今日もいい天気。


 布団に横になりながら、わたしは頭で考えます。


 わたしの頭の中には、別の人の人生があります。


 わたしにはその人の顔も名前も分かりません。


 でも、わたしにはその人の記憶があります。


 地球の、日本で生まれ育ち、そして死んだ人の記憶。


 わたしのこの言葉が、その証明。


 わたしという意識に付随したその人の記憶という情報は、わたしが生まれたその日から、わたしに自己を認識させました。


 この記憶はわたしの自我を形作った、いわばもう一人のわたし。




 でも、わたしの頭の中の記憶は、答えをくれたことがありません。



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