第2話 お母さまのつみれ汁(1)

 さらさらの金髪を丁寧に梳く。


 三つに分けてそれぞれを交差させ、また繰り返す。長い長い螺旋を交差させ、引き締め、紐で結う。金色の三つ編みをくるりと巻きひとまとめしにしたら、はがねのかんざしで留める。


「できました、お母さま」


 肉の弱いわたしに出来るただひとつのお役目。朝早く起きて、お母さまの髪を整えること。


「ありがとう、アン。では、行ってきます」

「はい、いってらっしゃいませ」


 お母さまは立ち上がってすだれをめくり、そのまま裸足で修練場へ。そして、ひとっ跳びで海へ。


「いいなあ……」


 早朝の空に消えたお母さまを見送り、わたしも立ち上がりました。自室に戻らねばならないのです。


「あ……」


 立ち上がった途端、真っ白に眩む視界。わたしはふらふらと近くの柱に捕まり立ちしました。体の調子が元に戻るのを待ち、ゆっくりと深呼吸。


 大丈夫、落ち着いて。これはいつものことなのです。わたしは自分に言い聞かせながら、廊下を歩き始めました。手すりがあればよかったのですが、そもそもわたしのような人間に合わせた設備などこの世界には存在しないのです。


 きしきしと床板を鳴らしながら、慎重に歩く。


 視界に映るのは生まれた時からずっと暮らしている、わたしのおうち。板間にすだれ、武家屋敷めいた平屋の木造建築。和風なのですけど、頭の中の記憶のものとは細部の作りがちょっと違う、わたしの生家。


 例えば、らん間の彫刻の意匠。例えば、すだれの組み方。熱帯ならではといった自然の形は頭の中の記憶のものと殆ど同じなのですが、人の作り出した文化、その形がところどころ違うのです。


 当前ですが、この世界にはガスも電気もありません。でも、全く不便はないのです。


 というのも、わたしの頭の中の記憶では理解できない不思議な力が、日々の生活の中で働いているようなのです。


 わたしは立ち止まり、天井を見上げました。そこに備え付けられているのは、籠に入った小さな石。


 あの石が、わたしたちにとっての灯り。日が暮れると自動で点き、日が昇ると自動で消える、石の灯り。籠が燃えないか時々心配になるのですが、不思議と火事にはなりません。


 そういえば、お部屋の水瓶もちょっと理解できないことのひとつ。いくらすくっても水が減らないので。一体どういう仕組みなのでしょうか……。


「はっ、いけません……!」


 そうでした、わたしはお部屋に戻らねばならないのです。首を振って思索を打ち切り、右足を動かそうとして、


「あっ……!」


 一歩踏み出した途端、ぐらりと傾くわたしの視界。ぽてっと床に倒れるわたしの体。視界に映る木の床と、小刻みに震えるか細い右腕。どんどん色を失って真っ白に染まっていく、その輪郭。


 いけない。このままじゃいけません。せめて、せめてお部屋まで戻らないと……。


 でも、震える手はかりかりと床板を掻くばかりで、ちっとも言うことをきいてくれないのです。


 遠くに聞こえる波の音。

 すだれを揺らす島の風。


 やがて、目に見えるもの全てが真っ白になり、わたしの意識からも言葉が失われて……。


「おか、あさま……」







「よかった、アン。気が付いたのですね」


 見慣れた天井と、心底安心したようなお母さまのお声。

 不思議な石の柔らかい灯りに導かれ、わたしは意識を取り戻しました。


 お母さまがお部屋まで運んでくれたのでしょう、わたしの身体は定位置であるお布団の上。相当長い時間気を失っていたようで、すだれの外はもう真っ暗です。


「ごめんなさい、アン。あなたを強い肉に産んであげられなくて……」


 目だけを動かし、わたしが周囲を確認していると、枕もとに座るお母さまがぽつりと呟き、


「私にはどうしたらいいか、分からないのです。私がもっと腹筋を鍛えていれば、こんなことには……」


 悔しそうに自分の腹筋に手を当てました。えー、ぶっちゃけ腹筋は関係ないと思うのですが、この世界の人はお脳が筋肉なので仕方ないと思います。


 何しろ、わたしのように体の弱い人間は滅多にいないのです。というか前代未聞、「絶対にありえないこと」なのだそうです。


 つまり、肉の弱い娘を持った母親など皆無。お母さまが相談できる相手はこの世界に一人もいない訳でして。


 料理と同じく、この世界に医療なんて概念はありません。生きるに任せ、死ぬに任せる。それがこの世界の当たり前だから。


「お……」


 俯くお母さまにお礼を言おうとして、わたしはゾッとしました。


 声が出ないのです。


 落ち着いて。身体の機能をひとつひとつ確かめて。唇の形を変え、息を吐き、同時に喉を鳴らせば、声は出るはず。


「お、あ……」

「アン、どうしたのです。大丈夫ですか?」


 かけ布からはみ出したわたしの左手を、お母さまが両手で握りました。


 こわい。


 次に意識を失ったら、もう目覚めないかもしれない。本当に死んでしまうかもしれないという、本能的な不安と恐怖。


 死にたくない。わたしはまだ生きていたい。何よりも、わたしはまだお母さまの傍にいたい……。


 お母さまの手から伝わる、人肌の温もり。熱。


 嫌われてもいい、このまま死んでしまうくらいなら。これがわたしに出来る、唯一の手段。


 わたしは震える手でお母さまの指を握り返し、全神経を集中させて口を動かし、


「お、母さま、お願いが、あるのです……」


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