第100話 火と水の島、ディーヴァラーナ

「ま、負けました……」

「当ッ然じゃな!」


 オレンジ色の夕陽が沈む、コバルトブルーの水平線。

 アーティナの海岸地帯、その砂浜。


 むふんと胸を張るリルウーダさまの前で、わたしはがくりと膝を突きました。


 リルウーダさまから呼ばれていると聞いたわたしは、ヴァヌーツからアーティナに直行。たっぷりの睡眠とお食事で体力回復したあと、用件である翔屍体監視体制のお話や何やかんやを終え、お役目はほぼ完了。


 そんな訳で、リルウーダさまに喧嘩じゃと誘われたのですが、結果は全敗。決まりのある喧嘩ならば今度こそと、もう一手で勝ち筋が見えそうなのですが……。


「やっぱり難しいですう……」


 よろよろ立ち上がるわたしに、リルウーダさまはふむりと頷き、


「まあ、よかろうな」


 一度小さく息を吸って、


「申せ」


 リルウダーさまの急なお真面目顔に、わたしはこてんと首を傾げました。そして半ば反射的に、


「わたしは島民の生活とその文化に? この身を捧げる所存にござい、ます?」

「なんじゃ、気が抜けるのう……」

「何です、リルウーダさま。唐突に」

「あー、ヴィガリザに尻を叩かれてのう……」


 リルウーダさまが告げる、ヴィガリザさまから届けられたお言葉。


 ヴァヌーツは島主ヴィガリザの名において、アンデュロメイアをゼフィリアの島主と認める。


 それだけでなく、ヴィガリザさまはわたし個人の後見まで申し入れてくれたそうで。


「ヴァヌーツにああまで言われ、アーティナが動かぬ訳にはいくまいて」

「ありがとうございます、ヴィガリザさま……」


 わたしは夕焼け空を仰ぎ、ヴァヌーツの方角を探しました。東の果て、微かに瞬く星の光。


 嬉しい。


 あの人に、あんな凄い人に認められるなんて……。


 思えば、リルウーダさまもシェンスンさまもわたしに甘過ぎたのです。この世界の人間は人を育てるのがあまり上手でなく、側付きにしてもそうですが、見て盗め勝手に育てが基本で放置。


 ですが、ヴィガリザさまはわたしから目を離さぬよう、その上で厳しく、しっかり指導してくださいました。


 おそらくヴィガリザさまは、わたしにとってお師匠さまのような人なのです。島主を務めるにあたり、すぐに師と呼ぶべき人に出会えたのは、とても運が良いことだと思います。


 この世界に儀礼のようなものはなく、島主になったという実感はあまりありません。


 ですが、今この時。


 確かに今この時が、島主としての始点となり得る瞬間でした。


 ぷるぷるじーんと体を震わせるわたしに、リルウーダさまはやれやれといったお顔で、


「誇ってよいぞ。何せあ奴はこの世界で一番強い女じゃからのう」

「え、リルウーダさまが最強なのでは!?」

「次は負ける。儂にそう思わせたのはあ奴くらいのもんじゃて」


 ヴィガリザさまがリルウーダさまと喧嘩したのはたったの一度で、結果はリルウーダさまの勝利。ヴィガリザさまとの喧嘩は面白い。そう思ったリルウーダさまはヴィガリザさまに再戦を申し込んだらしいのですが、


『あー、大体分かッたからもういいですわー』


 と、当時は存命だった旦那さまのところへ飛んで帰ってしまったそうで。らしいと言えば、ものすごいヴィガリザさまらしいお話です。


 リルウーダさまは、今度は難しいお顔で腕を組み、


「しかしまさか、お主の方が先に仕上がるとはのう。足並みを合わせるため、アーティナも引き継ぎを行ってしまいたいのじゃが……」

「ナーダさんは今タイロンでしたね」

「そうなのじゃが、なのじゃが、じゃが……」


 何だかじゃがじゃが考え込んでしまいました。ナーダさんが島主になってくれると色々話が早いので、わたし的には是非ともなお話です。


 さて、それはともかく、とわたしはアーティナの夕暮れを見回しました。


 巨大な階段の上に立つアーティナの大樹。

 都市部上空に浮遊する巨大立方体群。

 砂浜にぼーっと突っ立っているイーリアレ。


 そう、せっかくのアーティナなのです。わたしはまだチョコレート未体験なので、前回食べ逃したチョコレートを是非とも食べてみたいのです。


 出来れば、お母さまとシオノーお婆さんへのお土産分も用意できれば言うことありません。あとディナお姉さまや海守さん蔵守さんたちの分も、あと子供たちの分も、ここまで来たらアキリナさんたち男衆の分も。


 ゼフィリアは人が少ないので、そこをなんとか……!


 てな感じで、わたしがチョコレートに甘い思いを馳せていると、


「にゅ……?」


 さらりと、小さな波が足にかかったようなその感覚に、わたしは眉を寄せました。風ではありません。でも何か、ここではないもの、何処かの何かがズレ込んだような、不思議な感覚を覚えたのです。


 わたしがその感覚にきょろきょろしていると、


「感じたか。やはり、お主の石に対する勘は大したもんじゃのう」


 リルウーダさまは腕を解き、海に目を向けました。その場所はここから遠くない浅瀬。目を凝らすと、海面に丸い鏡が浮かんで見えます。


 わたしが円を注視していると、その表面から黒い影がずずずとせり上がってきました。


 海水を滴らせたミディアムショートの黒い髪。

 青磁のような白い肌。

 胸巻の上に襟だけの布を巻いた、黒い着物。


「ヘラネシュトラ……」


 リルウーダさまのお声に開く、深紅の瞳。


 ディーヴァラーナのヘラネシュトラお姉さま。


「双剋のリルウーダ様。此度の無礼、どうかご容赦を……」


 シュトラお姉さまは、海の底に置き去りにされたような、とてもか細い声で、


「アンデュロメイア様に、ディーヴァラーナにお越し頂きたく」







 アーティナ都市部の海岸線。

 潮風の吹く夕焼けの時間。


 わたしは突然海上に現れたシュトラお姉さまを注意深く観察しました。


 腰巻は……、履いているようです。おっけー。


 わたしがその事実にほっとしていると、


「ヘラネシュトラよ、まさか……」

「はい。私の、私達の力では、最早……」

「止むをえん、か」


 シュトラお姉さまと何だか深刻なやり取りをしたリルウーダさまが、何だかキリッとわたしを睨み、


「メイよ、緊急じゃ」

「わたしが? ディーヴァラーナに行って何かお役に立てることがあるのですか?」

「行けば分かろう」


 うーん、ヴァヌーツに引き続き、またしても百聞は一見にしかず、です。しかし、行って分かるならその方が早そうですし、シュトラお姉さまのお願いを無碍にするわけにはまいりません。


 そう思ったわたしは、シュトラお姉さまに向かってこくりと頷き、


「承知いたしました。ディーヴァラーナへ向かいます」

「ありがとうございます、メイア様……!」

「すぐ発ちますか? 移動はその技で?」

「お任せください」


 わたしは右手に風込め石を作り、纏いでふんわりシュトラお姉さまのもとへ。わたしの遠翔けでもよかったのですが、シュトラお姉さまの技に興味があったのです。


 わたしに続きイーリアレが浅瀬に歩み出たところで、シュトラお姉さまはお顔を曇らせ、


「申し訳ありません。わたしの水鏡は二人が限度でして……」

「そうですか、えーと……」


 ちょっと考えて、わたしはイーリアレにお使いを頼むことにしました。


「イーリアレ。あなたはアルカディメイアで待っていてくれませんか」

「ですが、ひめさま」

「心配ありません。ですよね、シュトラお姉さま」

「はい、メイア様は私が責任をもってアルカディメイアに送り届けます」


 ナノ先生に連絡せねばならないこともありますし、帰りがけにアルカディメイアを中継する予定だったのです。


 イーリアレは不承不承といった雰囲気を放ちながら、


「わかりました……」

「では、アルカディメイアで。行ってきますね」


 纏いを解除すると、シュトラお姉さまが、「失礼します」と断り、左腕でわたしを抱きかかえました。そして、水込め石をまとわせた右腕をかざすと、わたしたちの頭上に円形の水鏡が出現。


 橙色の夕焼けの中、わたしたちに下りてくる、灰色をした水の鏡。


「目を閉じますよう、お願いします」

「はい、分かりました」


 瞼を閉じる直前、わたしの目に映ったのは、橙色の浜辺に立つイーリアレ。隣に立つリルウーダさまは、わたしそっくりのお顔に小さな声で、


「メイよ、急ぐのじゃぞ……」







「もうよろしいですよ、メイア様」


 目を開けると、そこは別の海でした。


 昼なのに薄暗い、霧深い海の上。

 潮の匂いまでが重苦しい、灰色の海。


 わたしは髪が含んだ水気を手で拭いながら、シュトラお姉さまが立つ水鏡を改めて確認です。


 面白い仕組みの技でした。発想の原点は名前通り水の鏡。違う場所を鏡に映す、遠見の願望が形になったものでしょう。目の前にある水と遠方にある水を同じものと定義すれば、石の射程外であるアーティナに鏡が出現した理由も頷けます。


 この考えを基に、目的地となる海面に同一体の鏡を生成、二対の鏡を空間的に同じものだと世界に錯覚させる。そして、鏡のこちら側で空間を膨張、目的地側で収縮させることにより、それを潜り抜ける。代入式は十中八九、はがねの引力操作。


 跳躍に時間がかかるため機動的には使えそうにありませんが、それでも長距離移動手段として非常に有用だと思います。難点は、水面から水面への移動しか出来ないこと。そして、海水で全身びしょ濡れになってしまうことでしょうか。


 さて、今はそれよりも……、


 シュトラお姉さまの腕の中から、わたしは目の前の風景と向かい合いました。


 霧の向こう、陰鬱にそびえる黒い影。

 海から突き出した巨大な尖塔群。

 かつての陸、その残骸の姿。


 ここが火と水の島、ディーヴァラーナ。


 黒い波が打ち付ける黒岩の塔。その根元に掘られた昏い洞穴。穴の近くの海上には気込め石で作られた船や筏が足場として繋がれ、小さな女の子が食事の準備をしています。


 この世界のものとは思えない、物悲しい風景。


 ゼフィリア、アーティナ、アルカディメイア。そして、タイロンにヴァヌーツ。わたしの知るこの世界の島々は、何処も人の活力に満ち溢れていました。


 しかし、ここディーヴァラーナは違う。


 わたしは腰巻を掴みそうになった両手を、そのままぎゅっと握りしめました。わたしがディーヴァラーナのため、どのような役に立てるか分かりませんが、わたしに出来ることならばやり遂げねばなりません。


 ですが……、


 わたしの見上げる黒岩の尖塔、苔むしたその地肌。ディーヴァラーナはシグドゥの接近を許してこうなったのではない。しかしこの破壊の痕は、一体何が……。


 溶けたような質感になった岩肌に、わたしが引っかかりを覚えていると、シュトラお姉さまが、


「そちらではございません。上です」

「うえ?」

「よろしいですか?」

「え? はあ、まあ」


 よく分からないまま、わたしは頷きました。目的地がここではないなら、そこに連れて行ってもらわないと何も始まりませんし。


 シュトラお姉さまが右手の水込め石をかざすと、わたしたちの頭上に、今度は水の輪が出現しました。


「参ります」


 シュトラお姉さまはその輪に向かって垂直ジャンプ。筋肉。


 わたしが顔を上げたその先、進行方向に次々と現れる水の輪。その輪を潜り抜けるたびに加速力が働き、わたしたちは霧の中をぐんぐん昇っていきます。なるほど、これも面白い技術です。


 おそらくは、これがディーヴァラーナ流の飛行技術。むしろ、先ほどの長距離移動の方が応用なのでしょう。転送で濡れた体がもう乾いてしまいました。


 一体何処まで、わたしがそう思った時、急に視界が広がりました。霧を抜けたのです。眩しい光に目をつむり、再び開くと、そこは一面の青と白の世界。


 雲の上。


 わたしが霧だと思っていたものは、既に雲になっていたのです。そして、そして、空に浮かぶ在り得ないものを眼下に、わたしは声を震わせ、


「こ、れは……!」


 その全貌を把握した時、わたしの脳裏に浮かんだもの。アルカディメイアで当初研究課題に選ぼうとしていたもの。そして、思い出すのはフェンツァイさんとタイロンの私室で交わした言葉。


『我々の住むこの星において、空が安全圏であることは間違いない』


 そう、この世界の人は完成させていたのです。


 咲きほこる花々。

 さらさらと流れる小川。

 雲の上に浮かぶ、緑の大地。


 これが、フハハさんがディーヴァラーナの人々に与えた仮の大地。これが、ディーヴァラーナの今の姿。


「空に浮かぶ、人工島……」







 空に浮かぶ巨大庭園。

 仮初めの地、ディーヴァラーナ。


 わたしはシュトラお姉さまの腕から、その島に下り立ちました。


 肌に感じる温かな陽射し。白や桃色や、空色の花々が咲き乱れる、緑の地。無色の風の中を思い思いに過ごす、ディーヴァラーナの女の子たち。まるで理想郷のような長閑な風景。ですが……、


「うう、うーん……?」


 わたしは口元をむにゃむにゃさせながら、足元を見下ろしました。草を踏む足の裏が落ち着かなくて、何だかムズムズするのです。地に足が付いていないというか、確かに普通の土ぽいのですが、ものすごく不安な気持ちになるのです。


 わたしが地面をたしたし踏んで確かめていると、


「いかがされましたか?」

「いえ、その、なにか……」

「やはりお分かりになるのですね。流石です」


 そう言って、シュトラお姉さまはもう一度わたし抱き上げ高速移動。筋肉。


「お帰りなさいませ、シュトラ姉様」


 視界に溶ける青と緑。お辞儀するディーヴァラーナの幼子たちを通り過ぎ、わたしたちはある場所に到着しました。


 おそらくはこの島の中心地、緑の大地にぽっかりと開いた、大きな縦穴。ディーヴァラーナ領にあった縦穴を彷彿とさせる、巨大シャフト。


 シュトラお姉さまは間髪入れず、シャフトにジャンプ。再び進行方向に水の輪が出現。この島に昇って来た時とは逆、減速する働きの輪なのでしょう。


 わたしたちが落ちる、巨大な縦穴。穴の壁面は真っ黒で、この島の地表とは違う材質の岩だと分かります。穴の底に雲が見えるので、シャフトはこの島を貫通しているようです。しかし、それよりも……、


「あれは、まさか……」


 穴の途中にあるものに、わたしの目は釘付けになりました。


 程なくして、シュトラお姉さまは足場に着地。そこは壁からせり出すように、あるものに向かい作られた、黒い橋のような足場。


 わたしの体がその橋に下ろされると、わたしの足が吸い寄せられるように、そのあるものへと近付いていきました。


「私が貴女をお連れしたのは他でもないこの島の、この石のことです」


 宙に浮きゆっくりと回る、この島の心臓部。

 わたしの身の丈の十倍はあろうかという、大きな石。


 縦に伸ばしたようなひし形。

 石の放つ光は他でもない、紫。


 有り得ないほど巨大な、かなめ石。


 極紫の命石。


 言葉を失って立つわたしの傍ら、シュトラお姉さまは紫色の光を苦し気に見上げ、


「覇海の御方が作られたこの島に、限界が来ているのです」


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