第99話 あの日に続く海の底から(2)
「ちょりっす」
右のもみあげから三つ編みを垂らした白い髪。
紫色の瞳と、左耳のはがねの飾り。
ボロボロになった白い着物と、細かな傷が刻まれた白い肌。
わたしの振り向いた先、海の上に立つ一人の男性。
タイロンのレンセン殿。
「歌声が聞こえたから、分かりやすかったよ」
「れれれレンセン殿、何故ここに?!」
レンセン殿は相変わらずの眠そうなお顔で、
「ああ、俺、タイロンを出たんだ」
「いえ、ちょっ。意味が分からないのですが……」
「たまには帰るよ。まあ、妹みたいなヤツもいるしね」
驚き狼狽するわたしの背後、ヴィガリザさまはヒュウと感心したように口笛を吹き、
「こりゃまた、すんごい肉の持ち主ねー」
レンセン殿はわたし越し、ヴィガリザさまに向かって、
「ロール爺ちゃんのあれは、肉が強いから出来るんだ。お姉さんがやったら、肉がもたない。爆発して終わりかな」
「ベッツに、爆発すんならそれでもいーの。分かッかなー、青年。アッタシはムダに死にてーの」
軽い口調とは裏腹に、その眼光を鋭くさせるヴィガリザさま。しかし、そんな圧にもレンセン殿はどこ吹く風で、
「ふうん。まあ、いいんじゃないかな。大昔にはシグドゥに挑んだ女の人もいたみたいだし。だけど、夜の浜辺でそういう話するのはやめた方がいいね。デン爺ちゃんが聞いたら泣いちゃうよ」
そして、ほんの少しだけ沖に顔を向け、
「デン爺ちゃんやロール爺ちゃんは陸で生まれた人間のこと、みーんな自分の子供や孫だと思ってるみたいだから」
それきり黙ってしまいました。
波と風の音だけが聞こえる、静かな時間。やがて、レンセン殿は思い出したようにわたしを見て、
「ああ、そうだ。肝心の用事を忘れてた。ホウホウの遺言、になるのかな、を伝えに来たんだ」
零れる弦と、落ちる弓。
空気に消える気込め石。
レンセン殿が告げたその言葉に、わたしは全てを忘れ立ち上がりました。
わたしたちの間に吹く、ヴァヌーツの風。
海の上に立つ、タイロンの男性。
重なる面影。
その影が、やがて小さく口を開き、
『あなたの自信には、俺がなりましょう』
左耳のはがね飾り。
『あなたの物語には、俺がなりましょう』
長い長い白い三つ編み。
『この身はいずれ海の藻屑なれど、心はずっとあなたと共に』
わたしが焦がれた、紫色の瞳。
『誓います』
消える面影。
ひと際強く吹き抜ける、夜の風。
海の上に立つのは、いつも通り眠そうなお顔のレンセン殿。
「あいつ、アホウなんだ。俺が行くって言ったのに、あいつ勝手に行きやがってさ。遺言なんて、俺は聞きたくなかったのに」
それだけ言うと、レンセン殿はわたしたちに背中を向け、
「伝えたよ。それじゃあね」
少し歩いたところで、再び思い出したように振り向き、
「そうそう、夜の浜辺で歌は大歓迎。海で死んだ奴等も、水底で耳を澄ましてる。夜はそういう時間なんだ」
雲一つない満天の星空。
鏡のように凪いだ昏い海。
沖に向かう、一人の男性。
レンセン殿は、その後ろ手をひらひらさせて、
「届くよ。返事は返してくれないけどね」
「ああっ! あ、あああああぁぁ……!!」
レンセン殿が闇に消え、波の音が聞こえなくなってから。
気付けば、わたしは浅瀬に駆け出し、夜の海に向かって走り出していました。風も纏わず、泳げないわたしがこれ以上進んだら間違いなく溺れてしまう。
そんなことも構わずに。
「ひめさま! ひめさま!」
「あああああああっっ!!」
短い金髪を夜の風に振り乱して、目から涙を、口からあらん限りの声を振り絞って。イーリアレに羽交い絞めにされ、それでも、わたしは沖に出ようと体を暴れさせました。
あの人の倒れ伏す姿を見た時、これは現実のものではないと、わたしには無関係なことだと、勝手に思い込んでしまったのです。でも、あの人の言葉がわたし個人に届けられたことで、凍っていた感情が溶け出し溢れ、止まらくなったのです。
「無神経だッた。ゴメンなー」
イーリアレの腕から抜け出したわたしの体を、今度はヴィガリザさまが持ち上げました。ヴィガリザさまは、バタバタもがくわたしを小脇に抱え、
「シェンスンの息子が海に向かッたッて聞いたの、忘れてたわー。アンタの大切な人だッたんだねー」
「分か、分かりません! でも、でもわたし、自分でも、気付かなかっ……!」
ずっと考えないようにしていました。
肉の弱いわたしには無理だから、数えで八歳のわたしにはまだ早いからと。想像しないようにしていた、これからの、自分の将来のこと。
もし、叶うなら。
わたしは誰の傍で生きたいのか。
あの朝、あの人が倒れていた場所。あの広い壁屋敷で、わたしの部屋から一番近い吹き抜けにいたのは何故?
思い上がりかもしれません。
でも、知っていたのに。
この世界の男性にだって、人を好きになる心があることを。
あの人はわたしのことを。
わたしはあの人のことを。
氷の地でも、熱帯の島でも、何処でもいい。
わたしが当たり前の、一人の女性として生きることが出来るなら、その全てをあの人と共に。この世で巡り合って、心の底からそう思えた、ただ一人の人。
「わた、わたしが止めていれば……!」
「そッか。アンタも追いかけたんだね……」
真っ黒な水平線に向かって宙をかく、か細いわたしの両の腕。
もっと話しておけばよかった。
もっと触れておけばよかった。
難しく考えちゃダメ。頭には、一番好きな人の笑顔さえあればいい。自分の作ったものでその人が笑ってくれたら。その時、自分が隣にいたら。
あの夜、あの海の上で。
何が出来たかなんて関係ない。
あの時、わたしが引き返さなければ。
あの夜、わたしが傍にいれば……。
海の彼方、涙で歪み、ぐにゃぐにゃになっていく水平線。
手を伸ばしても、もう届かない。
「ホウホウ殿……」
力尽きてうなだれ、動かなくなったわたしを、ヴィガリザさまは砂浜に下ろしました。わたしはそのままうずくまり、顔を砂に押し付け、両手で砂を掴み、
「ううっ、ううぅぅぅ……」
「言葉を贈る機会、か。沢山あッたはずなのになあ……。アッタシもねー、いッつの間にか逃しちゃッてたねー……」
昏い砂に吸い込まれていく、わたしの涙と小さな嗚咽。背中に感じる、二人の手の平。熱。
「まー、仕方がないねー。仕方がないものは仕方がない」
ヴィガリザさまは星空を仰ぎ、ほんの少しだけ息を吸って、
「仕ッ方がないから、生きるとしますかー……」
「起ッきた?」
跳ねるような小さな声に、わたしの意識は浮上しました。どうやら、わたしはうつぶせのまま、泣き疲れて眠ってしまったようです。体を動かそうとすると、その反応が重く、胴も腕も持ち上がりそうにありません。
口の中にじゃりじゃりした砂を感じながら、わたしは何とか言葉を絞り出し、
「はい……。すみません色々と……」
「謝んなくていーから。言ッたッしょ、仕ッ方ねーッて」
「はい……」
「んじゃ帰るよ。ほら、立ッた立ッた」
「はい……」
わたしは砂浜に手を突き、のっそり立ち上がりました。顔も髪も砂だらけ、潮で全身ベタベタの酷い有様で。それでも何とか、うつらうつらしているイーリアレの背によじ登り、
「お願いします、イーリアレ……」
「ひゃい、ひめしゃま……」
ようやく帰路に就きました。
遠く聞こえる波の音。
辺りはまだ薄暗く、星の光が瞬くだけ。
わたしはイーリアレの銀髪に顔を埋め、瞼を閉じました。
何も考えたくない。とにかく、今は何も考えたくないのです。息もしたくないほど心も体も重苦しくて、今はとにかく、何もしたくないのです。
砂浜をふらふら歩くイーリアレに揺られながら、わたしは再び眠りに落ちて……、
「ちょい寄り道すんよー」
ヴィガリザさまのその声で、わたしは眠りから引きずり起こされました。のろのろ目を開けると、前を歩いていたヴィガリザさまが浜から浅瀬へ、ざばざば進んでいきます。その先に立つ影を見て、大きく見開くわたしの瞳。
ツェンテさん。
遠目に見ても分かるその異質さに、わたしは一瞬で目が覚めました。あれは人であって、人ではない。一切の感情が無い、足元から小さな波紋を発生させるだけの、生きた楔。
人の形をした結界装置。
ヴィガリザさまはそんなツェンテさんに対し、昼と全く同じ態度で、
「ツェンテ。お前らはさ、生きてて楽しいこととかあんの?」
夜の海に立つ男に話しかけてはいけない。
何故なら、この世界の海を均しているのは、夜の海に立つ男性だから。夜の海でのあの人たちは並列思考で繋がった、正に精密機械。おそろしく繊細なバランスの上に成り立つ、共鳴器官。
「オラッ、好きなもんはねーのかッて聞ーてんのよ。老人以外で」
いけない、ダメ。
乱してはいけない。もし少しでもツェンテさんを動かしたら、夜の海が大変なことになってしまう。
わたしがヴィガリザさまの行動にはらはらしていると、ツェンテさんが小さく口を開き、
「数、学……」
「それもいーから。他には?」
「アルカディメイアで、初めて作った、蒸し魚……」
「それが食べてーの?」
ほんの一瞬。
ツェンテさんは昼と同じ、人間の表情を取り戻し、
「叶うならば、何度でも」
「ふーん、あッそー」
それだけ聞くと、ツェンテさんをそのまま放置。ヴィガリザさまはざばざば浜に戻ってきて、
「寄り道終ッわり、戻んよー」
居住区に辿り着くと、すっかり夜が明けていました。ヴァヌーツ女性陣はもう起き始め、朝の仕事に取り掛かる準備をしています。
きびきびとした人の動きの中、わたしたちはダラーッと進み、ヴィガリザさまの寝起きする幕屋の前へ。そこに立つのはチョコレート色の小さな背中。
熱操作をしていたのでしょう、右手にはがね石をまとわせていたリガニアちゃんが、わたしたちに気付き、
「おはよう、母様。何処行ってたの?」
「リガ」
振り向いたリガニアちゃんを、ヴィガリザさまは突然抱き上げました。
「母様……?」
「アイツら、ツェンテ達さ、生きる気があッたんだよ……」
そして、困惑するリガニアちゃんの髪に顔を埋め、両の瞼を閉じて、
「生ッきたいんだッてさ……」
ぎゅっと抱きしめました。
しばらくして、ヴィガリザさまはリガニアちゃんを地面に下ろし、膝立ちになって視線を合わせ、
「ツェンテの好物、トーシンのやつみたいな蒸し魚だッて。アッタシのやつよりさ、薄味の方が好きみたいね」
眉を下げて、口の端を上げて。
笑顔だとはっきり分かる、優しい表情で、
「そろそろ漁から戻ッてくるよ。行ッてやんな」
「でも……」
リガニアちゃんは、一瞬視線を逸らして逡巡し、
「分かったわ」
あっという間に海の方に跳んで行ってしまいました。筋肉。
リガニアちゃんを見送った後、ヴィガリザさまは立ち上がり、右手を開きました。手の平の上にある赤い石を少しの間見つめ、あっさり消去。そして、
「んーッ……」
大きく伸びをして、大きく深呼吸。胸一杯に空気を吸い込んでから器用に体を捻じり、はがねの飾りをしゃらりと鳴らせ、
「あー、そーいやウーダ先輩が帰りがけにアーティナ寄れってさー。そんなワッケでー、ハイハイ、ゼフィリアさんは行ッた行ッた。アッタシは寝ーる。はー、徹夜なんかするもんじゃねーわー」
それだけ言うと、ヴィガリザさまは自分の幕屋にすたすた帰ってしまいました。
青から紫へ、紫から赤へ。
朝の光を受けて色を変える、砂漠の丘。
白い砂の上に取り残された、二人きりのわたしたち。
ほぼ徹夜で疲れ果てた体に残る、不思議な感情。わたしの心には、依然重苦しい悲しみが居座ったまま。でもその奥のずっと深くに、ある確信が生まれたのです。
この世界の男性は、死にたくて死にに行くわけではないのです。
ヴィガリザさまの旦那さまも、他の男の人も、きっとわたしたちと同じ。当たり前の明日を夢見ていたはずなのです。
それは、ホウホウ殿が証明してくれたこと。
死を覚悟し、遺言を用意していても、それでもホウホウ殿はわたしのもとに帰ってきてくれたのですから。
誰だって死にたがってなどいない。だから、ヴィガリザさまも死にたがるのを止めたのです。
わたしはこくりこくりと船を漕ぐイーリアレに背負われたまま、幕屋に向かいちょこりと会釈し、
「お世話になりました、ヴィガリザさま……」
幕から覗く、赤色の髪とチョコレート色の背中。ヴィガリザさまは寝具の上、大地を抱きしめるように倒れ込み……、
それから、とても柔らかな声音で、
「おッはよう、ヴァヌーツ。いい朝だねえ……」
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