第117話 わたしの夢は(1)

「っっ……!!」


 みぞおちが痛み、体が跳ねる。

 咳込み、白い着物の上に赤い血を撒き散らす。


 痛みで目覚め、血を吐き、力尽きて意識を失う。その繰り返し。


 今、わたしは海屋敷の私室、慣れ親しんだお布団の上。アルカディメイアの島屋敷で倒れたわたしを、ナノ先生がゼフィリアに連れ帰ってくれたのです。


「っは……! かっ、けほっ……!」


 途切れ途切れになる思考。その視界の中で横切る、たくさんの人の顔。ディナお姉さま、シオノーおばあさん、ナノ先生。そして、イーリアレ。


 あれから何時間? あれから何日?

 どれだけ時間が経ったか、分からない。


 大丈夫。


 そう言ってくれる人は、誰もいない。


 起きて、意識がしっかりしている時、わたしは石の力で自分の体に起こっていることを解析しようとしました。


 でも、ダメでした。両腕の時と同じ、石が上手く働かないのです。わたしの生み出す石はわたしの体と同じ波長だからか、反響し合ってしまい情報がブレるのでしょう。


 分からない。とにかく、分からないことが恐いのです。


 わたしの命が、あとどれだけあるのか分からない。


 吐いた血の量。日に日に弱る体。いつ終わりが来るか分からない恐怖。確かに目減りしていく残りの時間を感じながら、焦る。


 わたしの体に住み着いた痛みは、わたしの気力を着実に削いでいきました。







 昼。


 多分、昼なのだと思います。


 お部屋には布団の上に横たわるわたしと、枕もとに正座するナノ先生の二人きり。


「姫様、お水を……」

「すみ、ません……」


 帯から気込め石を取り出し、ナノ先生が小さな水球を作製。わたしは寝たままの姿勢で、その水に口を付けました。


 咳が酷くて、食事が喉を通らなくなってしまったのです。水に塩と砂糖を少量混ぜたものを用意してもらい、今は何とか、それをすすって飢えを凌いでいる状態。


「あれ……?」

「何か?」

「あの、ナノ先生。アルカディメイアは……」


 わたしは今更ながら、ナノ先生がゼフィリアに居たままだということに気付きました。


 ナノ先生は、わたしが飲み終えた水球をパッと消去し、


「アルカディメイアはロシオンディラとエレクシシーに任せてあります。これも機会、あの二人には屋敷番の役目を覚えてもらおうかと」

「ごめんなさい、わたしのせいで……」


 いつも引く手数多で、いつも求められているディラさんとシシーさん。あの二人なら、きっと頼りがいのある立派な屋敷番になるに違いありません。


 なのに、わたしはいつも人に心配させて、いつも人に迷惑をかけてばかりで……。


「ごめんなさい……」

「何を謝ることがありましょう……」


 疲れ、弱り切ったお顔のナノ先生。その表情が、今のわたしを映す鏡のようで……。


 ナノ先生から天井に目をやり、わたしはぽつりと、


「わたしは、いらない人間なのでしょうか……」

「姫様、何を……」


 幼い頃から見知った天井。わたしにとって、一番馴染みのある景色。


「討伐の時に各島から届けられた情報。わたしやヴィガリザさまがあれだけ声を上げても、呼び掛けても、分かってくれていた人は殆どいませんでした。みんな、何も分かっていなかった……」

「それは……」


 だって、必要とされていないから。そんなものを無理やり押し付けようとしても、分かってもらえる筈がない。


 これがこの世界での、当たり前のことだから。


「アルカディメイアで講義をしていた時から、ずっとそうでした。どれだけ頑張っても評価されませんでした。受け入れてくれた人は、ほんのわずかでした。だからこの世界はわたしを不要なものだと判断して、こうして排除しようとしているのではないか。そう思ってしまうのです……」

「姫様……」

「誰にも、分かってもらえなかった……」


 この世界の人はみんな健康だから、誰にも分からない。今のわたしの痛みを、気持ちを、誰も分かってくれない。


「でも、それでも……」


 当たり前の輪の中に入れなくとも、不要な駄肉と切り捨てられたとしても、


「助けて、ください……」


 諦めたくない。でも、とてもとても体が痛くて、辛くて。今この時、わたしが一番わたしを諦めようとしている。だから、


 わたしはナノ先生に向け、傷跡だらけの左手を上げ、


「お願いです、先生。わたしに諦めない方法を教えてください」


 それでも、生きていたい。


 宙に伸ばされた、わたしの左手。その手を前に、ナノ先生は突然床に拳を突き、頭を下げました。


「もう、もうお許しください……」

「先、生……?」

「姫様、あなたは早過ぎたのです……」


 カタカタと震える、両の拳。初めて見る、ナノ先生の銀色のつむじ。


「いいえ、姫様。世界はあなたを認め、求めています。その証拠に今年度、アルカディメイアでのゼフィリアの序列は間違いなく上がるでしょう」

「序列……? だって学生なんて、誰も……」

「あなたは世界を、今日という日を、既に変えているのです……」


 嗚咽が混じり始めた、ナノ先生のお声。それでも、はっきりとわたしに届くように、


「アーティナでは子供に読み書きを教える男性達が、姫様の石作りを基礎教育過程として取り入れ始めました。ヴァヌーツは生活用石作りの簡易公式を他島と共有し広めるよう、世界に呼び掛けを始めました」


 それは、わたしが知り得なかったこの世界の動き。世界の実情が集合する、アルカディメイアの人間だからこそ把握できたこと。


 この世界の人間の営み、その俯瞰。


「タイロンからは生活に必要な需要の割り出しと陸上総生産。その全ての数字が一切の欠け無く提出されました。全ての資源が明確な数字のもと、男衆の手により安定して生産され、流通されるようになりました」


 それはわたし自身が失念していたこと。遠くにいても人の声を聞くことが出来る、超常の集団。わたしの講義を聞いていたのは、この世界の女性だけではなかったのです。


 アルカディメイアの男性達の、その後の働き。


「あなたがアルカディメイアを去って一年、一年です。あなたの行った講義が、あなたの考えが理解されるまで一年もかかってしまった。あなたは早過ぎたのです」


 そして、その全てを主導したのは、


「タイロンのホウホウ殿……」


 宙をかいていた左手を戻し、わたしは体の上に掛けられた着物に触れました。


「あなたと彼の人の名はアルカディメイアの歴史に、必ず連名で記されることでしょう」


 ああ……、


 わたしの頬を流れる、血よりも熱い心の雫。体と記憶が想起し、作り出す。わたしがもらった言葉を、わたしが求めたあの声で。


『あなたの自信には、俺がなりましょう』


 続いている。


 肉が朽ち、この世界から心が消え失せても。ホウホウ殿の物語は、まだ続いているのです。


「あなたは世界を変えた人間です。そんな御仁に一介の屋敷番である私が、どうして教えを説くことが出来ましょう。もう、お許しください……」


 背中まで震え始めた、小麦色の肌。ほつれて落ちる、銀色の髪。


 視界には見知った天井。

 見慣れた模様の木板の木目。


 わたしはゆっくり目を閉じて、


「ごめんなさい、ナノ先生……」







 次に目を覚ますと、ナノ先生の姿は海屋敷にありませんでした。


 ナノ先生はゼフィリアの屋敷番。きっとアルカディメイアに戻ったのでしょう。わたしはそのことを当然と受け止め、だからこそ、わたしも本来の役目に立ち戻ることができました。


 人に心配されるようでは、島主失格。このゼフィリアに新しい笑顔を育む、わたしにそう期待したのは他でもない、ナノ先生なのですから。


 島主として、石を作る毎日。


 わたしはなるべく一人でいるよう心掛けました。イーリアレにもシオノーおばあさんのお部屋で寝てもらうようお願いし、吐いた血をすぐ分解できるよう常に気込め石を肌身離さず、人に心配させないために。


 誰もわたしを見ないように、誰もわたしを気にしないように。


 大丈夫です。


 そう言って、痛みと苦しみを隠し、毎日を生きる。


 わたしが広めた知識を基に、この世界の人は自らの力で歩み始めました。だから、この世界でのわたしの役目は終わったのです。


 依然、わたしの体は痛みに苛まれたままですが、心だけは凪いだ水面のように、静かに在ることが出来ました。この世界の多くの人に求められた充実感と、そのことで身に付いた自信が、わたしに平静を与えてくれたように思います。


 そういう不思議な落ち着きの中、わたしは時を過ごしました。


 何日か経ち、その日数が曖昧になった頃。


 すだれの隙間から縞々になった月だけが見える、静かな夜。


「けほっ……」


 暗闇の中、わたしは自分の咳で目を覚ましました。いけない、着物に付いてしまった血を分解せねば。


「あ、れ……?」


 わたしは口元を手で拭ってから、体に掛かる着物、その袂の部分を持ち上げました。


 確か、わたしは血で着物を汚して、それなのに、ホウホウ殿にいただいた着物は真っ白なのです。血を吐いたのは夢なのか。もしくは、今この時が夢なのか。


 分からない。途切れ途切れの意識のせいで様々なことが曖昧になり、もう何が現実で何が夢なのか、分からないのです。


 お布団の上、わたしが意味も無く途方に暮れていると、急に月の明かりが陰りました。わたしはその影に向かい、


「どなた、ですか……?」


 月を遮り、すだれを上げて入ってくる人の影。潮の匂いを全身から発している、その女性。いつも身ぎれいにしていた姿からは想像もできないほど、くたびれた風体。


 ナノ先生。


 そして背後の縁側、月明かりの中に浮かび上がる、黒い輪郭。


 長い黒髪と深い眼窩の奥に沈む黒い瞳。

 顎に生えた無精ひげ。

 大きな体躯に、真っ黒な着物。


 そして右手に持つ、黒く大きなお酒の瓶。


 ナノ先生はその影に振り向き、頭を下げ、


「一刻を争います。何とぞ……」


 潮の香りを含んだ夜の風。

 軒下に浮かび、きりんと音を立てるお母さまの風鈴。


 ナノ先生に促され、屋敷に足を踏み入れる深く昏い闇の形。その人は海の底から響くような、とてもとても低い声で、


「久しいな、アンデュロメイアよ」







「ナノ先生……」


 海屋敷の床に足を踏み入れるクーさんを見て、わたしは全てを理解しました。クーさんは気込め石の極致である極黒の紡ぎ石の使い手。この星で最も長く生物に寄り添い、知を深めた人。


 この人なら、わたしの体のことが分かる。


 でも、陸に五海候を呼ぶなど、あってはならないこと。それなのに……。


 他島の島主からは何の連絡も来ていません。それに、わたしがディレンジットさんを呼んだ時のように男性に言伝を頼んだら、あのフィリニーナノ先生がクーさんを呼んでいると世界中に筒抜けになってしまう。


 だから、ナノ先生は夜の海を一人で渡り、クーさんを探してきてくれたのです。


 屋敷番としての規律を破り、あれだけ徹底していた自分を曲げ、わたしのために……。


「にゃのしぇんしぇい、はりがほうございましゅ……」


 ナノ先生はぼろぼろ泣き始めたわたしにふっと笑い、右手を挙げてお部屋の灯りをともしました。その灯りの下、クーさんは立ったままわたしを見下ろし、


「イオシウスは間に合わなんだか」

「イオシウス、でございますか……?」


 振り向いたナノ先生に、クーさんはうむりと頷き、


「ゼフィリアに人を活かす面白い娘がいる。だが、その命は短い。そう奴に伝えてやっただけだ」

「では、イオシウスが陸を訪れたのは……」

「パリスナの都合など、俺の知ったことではない」


 そのことを知り、わたしは素で驚きました。クーさんは初めて会った時からわたしのことを気に掛けてくれていたのです。あっはい、全っ然気付きませんでした。


「ありがとうございます、クーさん」

「礼などいらん」


 わたしが鼻をすすりどうにか涙を止めると、ナノ先生はわたしの枕もとに正座し、クーさんは縁側近くにのそりと胡坐をかいて座りました。


「お願いします、黒海のゼ・クーよ」

「うむ」


 クーさんは黒い瓶をどっかと床に置き、空いた右手に黒い石を生み出しました。それは、気込め石の極致である極黒の紡ぎ石。


 クーさんはわたしに石をかざし、読解開始。放射線技師のように、わたしの身体を透視し、分析していきます。


 それで分かったこと。


 原因は、わたしの心臓。


 心臓は全身に血を送るためのポンプのような役割を果たす臓器ですが、心臓が弱ると上手く血が送れなくなり、中枢神経の枝となる末梢神経や肺に血が溜まるようになってしまう。


 わたしが吐いた血は、おそらくこのためのもの。幼い頃から慢性的に患っていた微熱や、ディーヴァラーナの空中庭園で起きた手足のむくみも、その症状と符合します。


「力を抜け」


 クーさんは帯から水込め石を取り出し、右手に纏わせました。そして、


「楽にせよ」


 クーさんが石の力を働かせた瞬間、胸にあった重苦しい感覚が無くなりました。


 極黒の紡ぎ石でわたしの肺の状態を精密に解析。微細な水蒸気をわたしの肺に入れ、不要な血と混ぜ合わせて消滅させたのです。


 わたしは数十日ぶりに澄んだ呼吸をして、


「ありがとうございます、クーさん……」

「まだ足りん」


 クーさんは水込め石をしまい、紡ぎ石を消し、


「極黒の力は生者に及ばん。何か出来るならとうにやっている。俺がイオシウスを動かしたのは、極紫の力ならばと思ってのこと。それを以てしても、助かるとは限らん」

「では、クーさん……」


 クーさんは深く深く頷き、


「お前を治すのは、お前自身の体と言うことだ」


 クーさんの話す、わたしの体を治すための治療法。極紫を使い、わたしの体を活かす方法。そのお話を聞き、わたしの心の底に小さな灯りがともりました。


 大丈夫。


 わたしはまだ、自分に大丈夫と言える。わたしの命には、まだ先があるのです。


 お話を聞き終えたわたしは、震える声で、


「大丈夫です、クーさん。フハハさんは間に合いました。フハハさんはわたしに、自分の身を立て直す力を与えてくれたのです」

「そうか」


 しかし、その説明を聞いたナノ先生は床に片手を突き、前のめりになって、


「そんな……。しかし、姫様。それでは、それではあまりに……」

「いいんです、ナノ先生」


 ゼフィリアは海屋敷の夜の時間。

 月に風、きりんと揺れるはがねの風鈴。


 わたしはお布団の上、ナノ先生に小さく頷き、


「島民の生活とその文化に、この身を捧げる覚悟は出来ています……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る