第118話 わたしの夢は(2)

「ふわぁ、おいしいですう……」


 芳ばしい香りに包まれた夜の時間。

 ナノ先生がお休みになったあと。


 わたしはお布団に渡した文机を前に、数十日ぶりの温かい食事を口にしました。咳が少し治まったので、食べることだけは何とか出来るようになったのです。


「ええ、足りなかったら秒でこさえますんで、遠慮せず言ってくださいな」

「ふぁい、ありがとうございましゅう」


 ナノ先生の代わりに起きてきたシオノーおばあさんが枕もとに座り、言いました。お夜食を作ってくれたのは勿論シオノーおばあさんです。


 シオノーおばあさんはわたしが食事を食べられるようになったらすぐ用意できるよう、気込め石で鮮度を保たせ、素材を準備しておいてくれたようで、最高に助かります。流石シオノーおばあさんです。


「はふっ、ふおおー……」


 わたしはお椀によそわれた久方ぶりのお食事を夢中で口に入れました。


 今わたしが頂いているのは、カニの汁物。


 カニの殻を空煎りし、水を加え昆布で取っただけの、シンプルな出汁。具はカニのほぐし身と、刻んだしょうががほんの少し。


 片栗粉のようなもので付けられたとろみがとってもありがたいトロトロな口当たりで、するする入ってしまいます。お上品というよりも、優しい味のカニの汁物です。


 何よりたまらないのがこの香り。


 おそらくですが、カニは一緒に茹でたのではなく風込め石で蒸し、完成直前に入れ味を馴染ませたのでしょう。身は柔らかいのにしっかりとした歯ごたえがあって、これは主食になりえる一品です。


「ごちそうさまでした、シオノーおばあさん」

「もういいんですかい? 相変わらず食が細いったら」


 わたしがお辞儀をすると、シオノーおばあさんは後片付けで食器をパッと消去。それから文机をひょいとどかし、わたしの背中を支え寝かしつけてくれました。


「まだまだですよ、姫様。椀に巻きに焼きものにね、こっちにゃ姫様に食べてもらいたい新しいもんがまだまだ沢山あるんですからね」

「はい、楽しみです……」


 わたしがじーんと温かくなった胃の感覚にうっとりしていると、シオノーおばあさんは満足したように頷きました。


 食事の後の無言の時間。しばらくして、シオノーおばあさんは両の拳を膝の上に乗せ、俯いたまま、


「治ら、ないんですかい……?」


 ゴリラなお顔を急に上げ、必死な様子で、


「人間の体ってのは入れ替わるんですよ、食べたものが肉に置き換わるんです! あたしゃ二年前とは違う、生まれ変わったんでさ! 料理だってそうです! 味だけじゃありません、どうやったら肉が強くなるのか毎日考えて、今は消化にだって気を付けて作ってるんです! いいものを食べてりゃ、体だって良くなるんじゃないんですかい!?」

「それでは足りん」


 シオノーおばあさんの大きな体から溢れる沢山の感情。その言葉の洪水を、縁側近くで胡坐をかき、お酒を飲んでいたクーさんが塞き止めました。


「二本の足で立ち、歩くだけでも命に関わる負担であったろう。この娘の心臓はそれほどまでに弱い」


 クーさんは杯に口を付け、ぐいっとお酒を飲み干し、


「同じ人間として扱うなら、この娘とよく向き合うべきだった。弱い肉と見捨て、この娘を自分達と同じ人間だと思わなかった、お前達の責任だ」


 そして、空いた杯に黒い瓶からお酒を注ぎ、


「笑い話だな」


 それから、またひと口お酒を飲んで、


「この娘を殺していたのは、お前達ゼフィリアだ」


 クーさんの言葉に、シオノーおばあさんは火が消えたように静まってしまいました。苦しそうなお顔で、膝の上に置いた両拳をメリメリと握り締め、


「ぐっ、ううぅ……」

「いいんです、シオノーおばあさん」


 クーさんは間違ったことは何も言っていないのです。生きるに任せ、死ぬに任せる。それがこの世界の当たり前だから。それに……、


「シオノーおばあさん、あの朝のことを覚えていますか?」

「ええ、忘れるもんですかい。あたしゃあね、あの朝生まれ変わったんですから」

「わたしもなのです、シオノーおばあさん」


 分からない、というきょとんとしたお顔になるシオノーおばあさんに、


「わたしを救ってくれたのは、シオノーおばあさん、あなたなのです」


 思い出すのは、雨上がりのあの朝。

 足の裏に感じた、冷たく湿った石畳。


「本当はあの朝、死ぬつもりだったのです。あの崖から飛び降りれば、弱い肉のわたしは簡単に死ねてしまうから。もうお母さまの、島の恥として生きていく自信が、勇気がなかったのです。でも、許しをくれたのは、シオノーおばあさん、あなたなのです」


 引き寄せられるように歩いた崖。

 朝陽よりずっと眩しい、キラキラな笑顔。


「姫様、そんな……。あたしゃ、姫様……」

「愚かな娘だ」

「御ッ方ァ!!」


 極大の怒声と共に、シオノーおばあさんが飛び掛からんばかりに身を乗り出しました。海屋敷をビリビリ揺らす圧の中、わたしは破裂寸前のゴリラに左手を伸ばし、


「いいんです、シオノーおばあさん」

「姫様……」


 左手が膝に触れ、その巨体をしゅんとさせるシオノーおばあさん。


 もう二度と、言葉を贈る機会を逃さない。そのために、


「ありがとうございます、シオノーおばあさん。あなたのお陰で、わたしは今日まで生きてこられたのです」

「メイ、様……」

「ありがとう、大好きです。シオノーおばあさん……」


 傷跡だらけの左手を包む、ゴリラな両手。くしゃくしゃになっていくシオノーおばあさんのお顔。


「違うんですよ……。あた、あたしゃただ、メイ様やイーリアレが本当の孫みたいにかわいくて……。あたしゃ、ただ……」


 シオノーおばあさんはつぶらな青い瞳に涙をいっぱい溜め、無理に作った明るい笑顔で、


「料理はね、本当に楽しいもんなんですよ! あたしゃあ残りの人生で、この道を駆け上がると決めたんです! だからメイ様にゃあ、あたしの傍でずっとずっと、おいしい思いをしてくんなきゃあ! 明日も明後日も、その先もずっとですよ……!」







 月の白い深い夜。

 昏き幻が座す私室にて。


 シオノーおばあさんに先に休んでもらったわたしは、お布団に文机を渡し、気込め石でプログラムの下書きを組み始めました。


 クーさんは縁側近くに座り、ずっとお酒を飲んでいます。時々わたしの作業に指摘してくれたりして、頭の中の記憶の世界と技術体系が違うとはいえ、そこはやはり四千年。クーさんもまたとても頭のよい人なのだと分かりました。


 気になるのはクーさん持参の黒い瓶。クーさんは既に瓶の容積以上のお酒を飲んでいるのです。ちょっとよく分かりませんが、極黒の力で内部に式が組み込まれているのでしょう。


 開け放たれたすだれから望む、闇の輪郭。

 さまよう風にその身を揺らす、森の木々。


 落ち着きと静寂が漂う、不思議な夜。


 葉擦れの音が途切れた沈黙。わたしは数字を記していた指を止め、ふと気になったことがあり、


「クーさんは、どうしてお酒が好きなのですか?」

「味だ」

「え、あ、はい」


 言い切られたわたしは少し考え、やっと理解できました。


 素材を加工することをしなかったこの世界の人間たちが、唯一見付けた味と呼べるものがお酒だったのでしょう。


 わたしがふむふむ勝手に納得していると、


「肉が枯れれば、老いて死ぬ。言葉が枯れれば、心が死ぬ。人は人に触れて言葉を紡ぐが、俺は人の間で生きるつもりはない」


 クーさんは胡坐の上に杯を置き、酒面に言葉を浮かべるように、


「酒は孤独を受け止める、鏡のようなもの。俺は酒を飲んで生き長らえているようなものだ」


 山を撫で、森を通り過ぎて吹く、陸の風。

 雲の衣が流れ、空にひとつ浮かぶ丸い月。


「人はさみしいと、死んでしまうのですね」

「それを確かめるために、酒を呑んでいる」


 どこか懐かしさを感じるお酒の香り。わたしは正面を向き、お母さまのお部屋にかかるすだれに目を向け、


「お母さまも、寂しかったのでしょうか……」


 今でも思うのです。アルカディメイアに行かずに、ゼフィリアを出ずに、わたしがお母さまの傍に居れば。そうしたら、わたしは言葉を贈る機会を逃さずにいられたのでしょうか……。


 クーさんは杯のお酒をひと口であおり、


「老いを止めても、長く生きられるとは限らん。だが極稀に、お前のような奴が生まれてくる。止めどなく湧き出づる泉のように、言葉と石を生み続ける人間。最近だと、アーティナの小娘もそうか」

「小む……まさか、リルウーダさまのことでしょうか」

「そんな名であった」


 一切の興味が無い。そんな様子で、クーさんは空になった杯にお酒を注ぎ足しました。


「イオシウスやローゼンロールもその手合いだ。次から次へと言葉を紡ぐ。近くにいると煩くてかなわん」


 そして、またお酒をひと口。


「止めどなく湧き出づる言葉の源泉……」


 繰り返す、その言葉。わたしは何もない宙に向かい、


「クーさん。わたしは、わたしの頭の中には、別の人の記憶があるのです……」


 そうして、わたしは頭の中の記憶のことを呟き始めました。


 とても不思議な気持ちと行動。このことは他人に話さないと自分で決めたことなのに、何故かこの時だけは、そのことを話すのが自然と思えたのです。


 時系列や順序、文脈の因果関係を伴わない、お話としては本当に意味不明な伝え方。わたしの頭の中に、人ひとりの人生が確かに存在していること。


 そして、この記憶のおかげで今日まで生きてこれたこと。


 わたしの話を聞き終えたクーさんは、ぐいっと杯を傾け、


「よく分からんが、そういうこともあるのだろう」

「色んな技術、色んな知識。わたしだけの力ではないのです」


 お母さまにシオノーおばあさんに伝えてきた、様々な技術。それを広めるために消費したわたしの時間は確かなものですが、今のわたしの生活はやはり頭の中の記憶あってこそのもの。


 クーさんは杯にお酒を注ぎ足し、またひと口。そして、


「その記憶に感謝することだ。生とは偶然の積み重ね。死が当然のこの世界で、お前のような肉が生き延びるとは。全く、大した賜りものよ」


 それから、ほんの少しだけわたしに視線を寄越し、


「自我と切り離されているとはいえ、その記憶とやらはお前の肉に依存している情報であることに変わりはない。料理は貴様の身体に食い物を適応させるための知恵。肉より生まれる化合物として、石の純度を上げるための手段と言ったところか」

「料理が、石にも影響を……?」

「そうだ」


 わたしは石作りの力を頭の中の記憶にある空想の力、魔法のようなものだと思っていたところがあるのですが、それは違ったのです。


 石はあくまで物質であるわたしたちの体が作り出すもの。お食事の形が変わり、ゼフィリアの人たちはその見た目が更にキラキラになりました。であれば、体から出力される石にも影響があって当然なのです。


 クーさんが言うには、お料理のおかげでわたしたちの作る石の機能、その精度と出力が上がっているとのこと。


 シオノーおばあさんの言う通り、人の体は食べたものでその構成要素が入れ替わっていきます。しかし、これは世代を重ねねば検証不可能な事柄かもしれません。


「石は都度消費されるものだが、その外装成分は歯に近いものだ」

「は?」


 人の歯。頭の中の記憶の人類に照らし合わせるならば、エナメル質である水酸アパタイト、燐灰石と呼ばれるもの。わたしたちこの世界の人類は頭の中の記憶の人類と組成が違う、しかしその働きが同じならば成分も近いものである筈なのです。


 わたしはそのことを記憶から参照し、


「お魚さんの鱗に近いものなのですね」

「そうだ」


 なるほど、わたしの考えは間違っていないようです。


 手の平の経路から放たれた電気を同時に噴出した鱗のような膜で閉じ込め、出力を劣化させずそのまま保存する。おそらくこれが石作りの生体的システムなのでしょう。


 人の歴史そのものが話す、物としての人の本質。文机を前に、わたしは自分の身体と向き合う作業を続けました。


 そこで、わたしはあることをクーさんに尋ねてみたくなったのです。


「あの、クーさん。ひとつ聞きたいことがあるのですが……」


 死が当然と言い切るこの人ならば、わたしが恐れていた疑問に答えをくれるのではないか。


「わたしは生きていていい人間なのでしょうか」

「何の話だ」

「極紫の命石は頭の中の記憶を参照したとはいえ、わたし個人の願望が生み出したものであるのは間違いありません。人を害する能力をわたしという本質が無意識に選択したこと、それが気になっていたのです」


 それは、ナノ先生に零してしまったわたしの疑念。わたしの畏れ、その根源。


 どうして、わたしの肉が弱いのか。

 どうして、わたしの心臓は弱いのか。


 全てはわたしという人間が長く生きられないよう、この世界の何かが仕組んだことなのではないか。こうなってしまったことに、何か理由があるのではないか。


 わたしの体の不具合が大きくなってから、痛みを感じるようになってから付きまとう、この思考。


 運命という言葉。


「ずっと考えていたのです、わたしという命の機能を……。この世界がわたしという不要な存在を排除するため、何かの力を働かせたのではと」

「そんなものは無い」


 クーさんはきっぱりはっきり言い切り、


「お前は間違っている。そも、イオシウスが極紫を作り出したのは殺すためではない。継ぐためだ」


 クーさんの話す、フハハさんのこと。


 それは、フハハさんが極紫の命石を作った理由。フハハさんが極紫の命石を捨てた訳。


 極紫の命石は他人の石を操る、制御を司る石。


 シグドゥと戦った男の人は、その殆どが生きて戻れない。生還できても、命が助かるとは限らない。何より深手を負ってシグドゥと戦えなくなった男は、役立たずの命でしかない。だから、その人たちは自分の石をフハハさんに託したのです。


 極紫の命石はその人たちに最後の救いを与えるため。石と肉体の接続を切り、安らかな最期を与えるためのもの。そうやって、フハハさんは多くの人の志を受け継ぎ、その人たちの石を武器に、長い夜を戦い続けてきた。


 しかし、今この時もシグドゥは存在している。それをもってしてもシグドゥの討伐は叶わなかったのです。


 フハハさんの悲しみと絶望は、とても深いものだったのでしょう。


 そして、ディーヴァラーナ本島の事故。


 極紫の命石は人の命を奪える石。その機能の印象を上書きするため、ディーヴァラーナに仮初めの陸を与える仕事を最後に、フハハさんは極紫化する道を選んだ。


 お話を終えたクーさんはお酒で口を湿らせ、


「偶然に意味を見出すなど、くだらんことだ」

「でも、クーさん……」


 心臓の時と同じ、分からないから納得を求めてしまう。そうでもしないと、心が辛すぎるから……。


 言い淀むわたしに、クーさんはぐいっと杯をあおり、とてもとても低い声で、


「顧みよ。料理とは、己の気配を消して挑むものだ」


 それは、クーさんがわたしを気に掛けてくれた、その動機。それは、わたしが喜びを伝えたかったことの理由。


「この島の者はお前が作った水を飲み、お前が作った火に集い、お前が作った風で海を渡る」

「でもそれは、本来のわたしの機能ではないのでは……」

「では、お前を補正させたものはなんだ」

「それは……」

「お前を人を活かす道に向かわせたものはなんだ」


 深い眼窩の奥に潜む、暗い瞳。全てを見透かすような、深淵の色。


「それは、わたしの頭の中の……」


 言いかけて、気付く。わたしを人という枠に制限し続けたのは……、


 クーさんはぐいっと杯をあおり、


「お前は人間だ。それにすがる姿勢こそが、人間性と呼ばれるものだ」


 そうして、また杯にお酒を注ぎ足しました。


 命の雫たゆたう鏡を干して枯らす。

 巡り巡る夜を越えた、この星で最古の旅人。


「喋り過ぎたな」

「それでは、また寿命が延びちゃったのですね」


 切ったように黙るクーさんに、わたしはくすりと笑いかけました。


 遠く空に輝く白い月。

 今日は不思議な夜だから。


 クーさんは眉間にしわを寄せた難しいお顔で杯を傾け、


「全く、面倒なことだ……」


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