第87話 城郭都市タイロン(1)

「ほあーっ……」


 白い息を吐き出して、空を仰ぐ。


 澄み切った青と、雲に覆われた灰。

 ある一線を境界に、二つの色に分かれている不思議な空。


 視線を戻せば、地平線の彼方まで続く氷の壁。タイロン都市部をグルッと囲む、壁屋敷と呼ばれる巨大な長城。


 転落防止柵の無い真っ平らな壁の屋上。右を向けば、大粒の雪が舞う氷雪の世界。わたしはその吹雪のカーテンに手を入れ、


「ひゃっ!」

「ひめさま」

「ありがとう。大丈夫ですよ、イーリアレ」


 凍てつく風を肌に受け、思わず手を引いてしまいました。腕をさすりながら振り向くと、朝陽が昇る快晴の空。眼下に広がるタイロンの都市。


 壁に沿うように建つ氷で出来た民家。その間に張り巡らされた水路。至る所に象形的な彫刻が施された、ゼフィリアよりも文明的に見える街並み。


 その向こうに茂る樹林。淡い色の花々が咲き誇る、桃園という言葉がぴったりの自然保護区。ここが極北だということを忘れそうになる、絵に描いたような楽園の風景。


 わたしはその景色に感嘆の息を漏らしてから、足元に目を向けました。そこにあるのは水込め石で出来た構造材。


 おそらくエアロゲルに近いもの。断熱性が極めて高く、その99%が空気で構成された、凍てつく煙。赤外線を吸収しやすくするためか、はがねの式が組み込まれているように見えます。


 しかし、この建材に仕込まれた機能はそれだけではありません。


 この壁で囲まれた区域だけが外部からの冷気を遮り、まるで常春ように温暖な気候を保っているのです。タイロンの建築は全て男性によるもの。今のわたしでは理解できない、結界のような法則を石に込めているのでしょう。


 わたしはつるりとした感触の床の上で一回転、再び灰色の世界へ。吹雪の向こうに目を凝らします。


 流氷漂う海の上を歩いてくるのは、たくさんの海産物が詰め込まれた大きな網玉。タイロンの男衆が夜の見張りを終え、漁から戻ってきたのです。


「帰ってきましたよ、イーリアレ」

「はい、ひめさま」


 小さく手を振ると、網玉の一つがぺこっとお辞儀しました。タイロンに来てからのわたしの日課。男衆に朝のお迎えのアイサツをすること。


 二色に別たれた空の下。

 長く長く横たわる境界の壁の上。


 わたしは猛吹雪の中で揺れる長い三つ編みに向かって、


「おかえりなさい、ホウホウ殿」







「何故、人は翼を持って生まれてこないのか」


 氷で出来た大きな翼群。

 空を飛ぶ生き物の機構が立ち並ぶ、壁屋敷の一室。


 わたしは宙に浮く氷の板に正座し、湯気の立つ紅茶をするっといただき、


「人間だからじゃないですか?」

「せやんな」


 襟や袖の意匠が太い和服のような着物。

 短い白髪に紫色の瞳。


 大きな机を挟み座るのは、この部屋の主であるフェンツァイさん。


 机の上には紅茶の入ったお茶碗と小さな鳥の巣。フェンツァイさんは巣の小鳥に小さく千切った魚の肉を与えています。


 白い小鳥の小さなさえずりを聞きながら過ごす、朝食後のお茶の時間。


 わたしはフェンツァイさんが小鳥に餌をあげ終えるのをゆっくり待って、


「空で生活する利点が無いからだと思います」

「我々の住むこの星において、空が安全圏であることは間違いない。ならば我々人類が空で生活出来るよう、体が最適化されてしかるべきではないか」


 ファンツァイさんが右手の水込め石をかざすと、その背後、窓になっていた透過壁がスッと無くなりました。そして、右手に小鳥を乗せ、窓に向かい立ち上がります。


 小鳥はフェンツァイさんの手の平で二、三度羽ばたいてから、青い空に向かって飛び立っていきました。


「ここタイロンで孵ったひな鳥は、吹雪をものともせずホロデンシュタックへと渡る。世代を超え、本能は環境を記憶する」


 フェンツァイさんは小鳥を送るように青空を見上げた後、透過壁を生成し、再び着席。


「潮の終孔、その報告には目を通した。三百年以上、我々人間の姿形は変わらぬままだと言う。それこそが我々の制限であり、限界であると。しかし、石作りの技術はどうか。肉体同様、文明自体は数百年変化は無いが、技術などの無形文化は着実に進歩している」

「つまり、人の形に変化が訪れるとすれば、それは意識により促され、石によって発現するものであると?」


 鳥が卵を割って孵るように、蝶がさなぎから羽化するように。人の形は石の力によって、いずれ形を変える。わたしたちこの世界の人類における進化論、その仮説。


 わたしはお茶碗に口を付け、フェンツァイさんの私室を見回しました。


 お部屋を照らす不思議な明かり。氷の建材が受けた日光を偏向、蓄積させる、火込め石を必要としない照明機能。その光をきらきらと反射させる、精緻な作りの氷の羽。


 フェンツァイさんは気込め石を右手に纏わせ、巣を分解。それからお茶碗を手に、翼の模型を一瞥し、


「そこにある翼を手に羽ばたけば、ぶっちゃけ飛べる。しかし、それだけだ。我々人間には、多くの因子が不足している」


 この世界の人類の強みは、言うまでもないことですが、筋肉です。しかし、この世界の人類の筋力をもってしても、石作りの技無くして空を飛ぶことは難しいのです。


 そして、タイロンは水と鋼の島。


 わたしの知るはがね石の力では浮遊が精々。離陸には使えても、推進力にするには出力が足りません。翼で滑空し、羽ばたきで高度調整をし、それを継続させねば飛行とは言えないのです。


 鳥が空を飛ぶために使う筋肉量は、実に全身の20%以上。更には、噛む力を退化させてまで減らした筋量、空洞化された骨など。鳥はあらゆる構造が軽量化された、飛ぶことだけに特化した体の作りをしているのです。


「我々はその不足を言葉で、想像力で補う生き物だ。そして、それはある形を通して引き継ぐことが出来る。そう、書こそが意識の記録。個人の記録はその拡散により、多くの人々に浸透する。書は人の心を、いずれはその身体をも変えていこう」


 そこまで話したフェンツァイさんは紅茶を口へと運び、ふうと色っぽい吐息を漏らしました。


 わたしも紅茶をひと口飲み、


「で、その想像力の成果にドン引かれて困ってる訳ですね?」

「さもありなん」


 ファンツァイさんはお茶碗を置き、神妙に頷きました。何だか色々難しいことを言っているように思えますが、フェンツァイさんは今混乱しているだけなのです。


 それはわたしがタイロンを訪れ真っ先に相談された、ある事案。


 ホロデンシュタックの男性にタイロンの女性の書を届ける過程で、どうやらホウホウ殿がその内容を知ってしまったらしいのです。


『よいか、ホウホウ。女には女の、男には男の世界がある。例えるなら、一筋の流れ星を境界線とした、広大な識の宙。時間は有限にして知は無限。その境界を決して踏み越えてはならん。お前は己の領分で知を重ねるのだ』


 それがシェンスンさまの教育、しつけであったとか。


 何も間違ったことは言ってないように思えますが、その実何もかもが間違っていると思います。ホウホウ殿がただただ気の毒でなりません。


 女性の書の内容など男性同士の話題に上がる筈もなく、ホウホウ殿はシェンスン様の教え通り、何も知らず超素直に生きてきたわけでして。実の母親や姉が心血注ぐ文学なるものが男性同士のむにゃむにゃだったなんて、夢にも思わなかったのでしょう。


 更にえげつないのがタイロンの書、その特徴。作者、題名など一部の情報を強調して石に込める、検索しやすいその作り。


 その本質は男性に内容を悟らせず、いかにも真面目そうな書に見せかけるための、いわば擬態のようなものだったのです。


 この事実に気付き、ドン引きしたホウホウ殿は、ご家族に対する態度を急変。「おはようございます」「失礼致しました」しか発言しない、そっけない生き物に成り下がってしまったそうで。


 まー、当たり前ですね。文化とはいえ、完全に自業自得です。


 フェンツァイさんはいつも通りのおすまし顔を真っ青にしながら、


「フッ、どどどどうしよう……」

「どうもこうも……」







 タイロンの壁屋敷、各階層に新設された大厨房。

 たくさんの人が思い思いの食事を作る、お昼前の賑やかな時間。


「いってきます、イーリアレ」

「はい、ひめさま」


 わたしは布をかけた大皿を抱え、イーリアレに軽く会釈。厨房から出発して氷の廊下を歩き、階層を移動するための吹き抜けに向かいます。


 ここタイロンの壁屋敷には階段がありません。階層毎の上り下りはこの吹き抜けで筋肉する。この世界の人間に合わせた建築であるのです。


 吹き抜けに着いたわたしは右手に纏う風込め石で気流を生み、ひょいと飛び降り二階層下へ。目的地は長い長い廊下の突き当り。


 わたしが水込め石で重厚な扉を開くと、お部屋の中にはずらりと並ぶたくさんの書架。外からの光を透過する採光壁が窓のように並んだ、壁屋敷の図書蔵。タイロンが誇る知の集積所。


 わたしは入り口でお部屋を見渡し、目当ての人影を見付け、ほっとひと息。その机までてしてし歩き、


「おはようございます、ホウホウ殿」

「おはようございます、アンデュロメイア様」


 白く長い三つ編み。

 落ち着いた紫色の瞳。

 雪のように真っ白な肌。


 帯の位置が高い着物と、左耳に揺れるはがねの飾り。


 見た目が反則級にかわゆい少女なタイロンの男性、ホウホウ殿。


 わたしは沢山の巻物が広げられた机の上にお皿を置き、


「失礼します」

「ええ、どうぞ」


 席に着くと、ホウホウ殿が茶葉の泳ぐお湯球を作成。お茶碗を作り、わたしにお茶を淹れてくれました。


 お茶のことも含め、わたしはぺこりと頭を下げ、


「ホウホウ殿、今朝もご馳走さまでした」

「こちらこそ、あの工夫には唸りました。イモを粉上にして吸水、加熱させることで糊化させる。しかしそれに味を付け、魚にかけようとは……」

「食事は習慣ですが、変化を持たせなければ退屈してしまいますので」


 アーティナからジャガイモが届いたのでしょう。ホウホウ殿が用意してくれた今日の朝餉は、片栗粉でとろみが付けられた餡かけ魚だったのです。


 わたしはホウホウ殿の感想に嬉しくなり、


「今日はこちらをお召し上がりください」

「は、有難く頂戴いたします」


 氷で出来た机の上、わたしがずずいとお皿を押し出すと、ホウホウ殿は丁寧に頭を下げました。


 器に盛られているのは透明な液体に浸かった白い寒天と、色鮮やかな果物。以前アルカディメイアでナーダさんとお話した、杏仁豆腐です。


 タイロンが誇る自然保護区にはさまざまな植物があり、杏子に近い植物を加工し、やっと試作にこぎつけた訳なのでした。


「ホウホウ殿は甘いものが苦手ですよね?」

「甘いものを? 俺が?」


 ホウホウ殿は思案顔になり、やがて思い当たることがあったようで、


「そう、なのかもしれません……」


 ホウホウ殿は朝食に必ず甘い物を付けてくれるのですが、蒸し料理や碗ものに比べ、甘味には余り工夫を凝らしていなかったのです。レシピ通りに作るだけで、そこから先に踏み込む気が無い、興味が無いように思えたのですね。


 ホウホウ殿はさっそくといった感じで匙を手に取り、杏仁豆腐をぱくり。すると、


「これは……、今まで食べたものの中で一番爽やかに感じます……」


 そのお顔をぱっと綻ばせてくれました。


「これははっきり分かります。これは好きな味です」

「この食べ方でしたら、色々な果物との組み合わせを楽しめると思います」

「それです。果物本来の甘さと風味がつるんと口に入り込んで、ええ、楽しいです。今まで食べた甘味は既に完成されていたように思えて、その日の気分でどう形を変えようか、考える余地が無かった。それが不満だったのだと思います」


 言いながら、ホウホウ殿が自分のお茶を淹れようとしたところで、


「あ、お待ちを。そちらにはお酒の方が合うかもしれん」

「酒、ですか? 甘いものに?」


 ホウホウ殿は眉根を寄せ黙ってしまいました。やがてその迷いを振り切るように、


「他ならぬアンデュロメイア様の薦めです。試さねばなりますまい」


 言うや否や、机の上にお酒の瓶が。筋肉。ホウホウ殿は自前で杯を作り、瓶からすくったお酒をひと口。その風味を確かめるように息を吐き、


「なる、ほど……」

「いかがでしょう?」

「酒のアテには塩気のあるもの、そう思い込んでいたのですが……」


 ホウホウ殿は杯片手に唸り始め、


「相乗効果、と言えばいいのか……。申し訳ありません、どうやら俺には、これを表現する言葉が思い付けないようで……」

「えやー、そんな難しく考えずとも、もっと気楽に楽しんでいただければ、と」

「そういうことでしたら、ええ、新たな楽しみになりそうです」


 アーティナで試したチョコとラム酒のように、甘味とお酒は組み合わせによって香りや風味が増すものがあるのです。いえ、わたしはお酒を飲まないので確かめられませんが。


 ホウホウ殿はお酒と杏仁豆腐をゆっくり楽しみ、


「ご馳走さまでした」

「いえ、お気に召したいただけたようで、何よりです」


 ぺこりと頭を下げ、気込め石で匙と器を消去しました。わたしはお茶碗を両手で包みながら、心の中のメモを開きます。


 このひと月、ホウホウ殿に食事を用意してもらったおかげで、ホウホウ殿の好みが何となく分かるようになったのです。


 以前伺ったように、刺し身は塩か島わさびで。基本的には素材の味を活かしたシンプルな味付けがお好き。ですが、タイロンの花の香りのするお酒のように、フレーバーを加えたものもまた好みであるようなのです。


 ホウホウ殿は、杏仁豆腐とお酒の組み合わせがお好き。


 わたしは新たな一行をメモに綴り、紅茶をいただこうとして、


「くちんっ!」


 くしゃみをしてしまいました。恥ずかしくなって口を押さえると、ホウホウ殿があっけに取られたような表情で、


「今のは……?」

「す、すみません! 多分、少し冷えたのだと思います」

「冷えた?」


 わたしの服装はゼフィリアにいた頃と同じ服装。


 この世界の人間は寒さで凍えたりしないのです。冷気自体は感じるのですが、イーリアレもケロッとしてますし、ついこのままだったのです。


 アルカディメイアで熱を出したのは疲労とストレスでしたし、肉が弱いと風邪とか引いちゃうのでしょうか、ちょっとよく分かりません。


 わたしが真っ赤になって俯いていると、ホウホウ殿のお姿が消え、


「ふわっ?!」


 途端、わたしの全身がタイロンの着物に包み込まれてしまいました。あ、これはとても、暖かいです……。


 もこもこになったわたしの向かい、ホウホウ殿は再び着席。筋肉。深々と頭を下げて、


「大変申し訳ありませんでした。アンデュロメイア様はゼフィリアの生まれ。寒暖差を考えればすぐ思い付けようものを、俺は……」

「いいいえ、お気になさらず! ありがとうございます、ホウホウ殿……」

「考え至らず、真に申し訳ありません」


 わたしは悔しそうにお顔を上げるホウホウ殿に、


「えーと、それはそれとしてですね……」

「はい」

「そろそろお休みになっていただかねば、困ります」


 ニコニコ笑顔でプレッシャーを放射。そう、わたしの目的はワーカー・ホリック気味なホウホウ殿を寝かしつけることなのです。


「は、しかし、切りのよいところまでやり遂げようと」

「今日もですか……」

「俺は二年間本島を空けてしまいましたから、その時間分の責任は果たさねばなりません」


 ホウホウ殿が作っているのは、このタイロンの壁屋敷や都市計画に使われた石、その索引記録。作業に関わった石を区画毎に整理し、すぐに参照出来るよう、纏めているのだそうで。


 わたしは小さくため息を吐いて、


「仕方ありませんね……。ホウホウ殿、もう少しだけですよ」

「ええ、もう少し」


 ホウホウ殿は杯片手に作業を続行。わたしはそんなホウホウ殿のお姿を眺めながら、お茶碗を両手に、もこもこな着物の襟に顔を埋めました。


 この世界に防寒という概念はありません。ですが、この着物はしっかり暖かく、ホウホウ殿の工夫が込められているのが分かるのです。


「ホウホウ殿、もう少しだけですよ……」

「ええ、もう少し……」


 水と鋼の島、タイロン。

 氷で出来た壁屋敷、その図書蔵。

 青と灰、二つの色が混じる境界の空間。


 静かで穏やかな、わたしたち二人きりの時間。


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