第89話 それは、きっと生まれる物語
「アンデュロメイア様、ご連絡ありがとうございました」
「いえ、お休みのところ申し訳ありません。ホウホウ殿」
橙色の日が長城にかかる、夕暮れの時間。
全ての植物がその表情を変える、タイロンの大庭園。
「アンデュロメイア様、お加減は?」
「あ、大丈夫です。この着物のおかげでとてもあったかいです」
「それはよかった」
わたしは待ち合わせ通りにホウホウ殿と合流し、庭園を歩き始めました。
隣を見れば、くすんだキャメル色に染まる芝をゆっくりと踏むホウホウ殿。ホウホウ殿はわたしと歩く時は必ず歩調を合わせてくれて、そういった細やかな心遣いがとても嬉しいのです。
ほどなくして、目的地に到着。
「あちらです」
わたしの示す先、大きな木の根元に胡坐をかき、木陰でうつらうつらしているディレンジットさん。こういうところを見ると、やはりこの人も植物好きなアーティナの男性なのだと納得してしまいます。
「ジットん、わざわざありがとう」
「ああ、見してみろ」
「これなんですが」
ホウホウ殿はディレンジットさんに石を二つ渡し、その場に腰を下ろしました。わたしもお隣に正座。
ディレンジットさんはホウホウ殿から渡された石を右手の平に乗せ、「へえ」と「ほお」を繰り返した後、
「ホウ、よく見てな」
左手に石を作り出しました。それは砂込め石の極致である銀色の石、至銀のさだめ石。
ディレンジットさんがその石を起動すると、銀色の砂が夕焼け空に向かって噴き上がりました。銀の砂が作り出す、その形は……、
「星をひとつの構造体として見た場合。海ってのも層でしかねえ。質点の相対位置は常に変化するものとして考えろ。分かるか、循環だ。海に潜って底叩いてみんだな」
無数の核を中心にゆっくりと回転する、人の遺伝子構造にも似た二重流形螺旋。見覚えのある動きと形。そう、テーゼちゃんの石の構成式によく似ているのです。
「トーシンじゃ石ってのは練る、織るとも言われてる。分かってんだ、あいつら」
リルウーダさまが最強である理由はその肉の強さだけではありません。石作りに対する深い理解があってこその最強。石作りを極めるということは、並外れた知性を持つ証明でもあるのです。
ホウホウ殿は銀色の渦潮を眺め、やがて得心がいったように頷き、
「なるほど……。ジットん、ありがとう」
「気にすんな」
わたしには理解が及びませんでしたが、ホウホウ殿は何か得るものがあったようです。
わたしが思索に耽っていると、ディレンジットさんが立ち上がり、ホウホウ殿に石を返しました。そのまま歩き出した背中を、わたしは逃すまいと慌てて立ち上がり、
「あ、ディレンジットさん。お渡ししたいものがあるのですが」
「何だよ」
うざったそうに振り向いたディレンジットさんの右手に、無理やり石を握らせ、
「水込め石です。飲み水や、体を洗うお湯が作れます。気込め石は着物や敷物が欲しい時に使ってください。あと……」
陸からの支援物資を渡し終え、わたしがホウホウ殿を振り向くと、
「ご用命通りのものになったとは思うのですが……」
ホウホウ殿は懐から白い小瓶を取り出し、ディレンジットさんに渡してくれました。
「アルカディメイアでこのお花が好きと伺ったもので」
「ああ、アレか。で、これを食いもんにかけりゃあいいのか?」
「いえ、違います。それは香りを楽しむための、ええと、香りを保管するための液体なのです」
小瓶の中身、わたしがホウホウ殿にお願いして作ってもらったもの。
そう、香水です。
この世界の人間は筋肉だけでなく嗅覚などの感覚も凄いのです。そしてホウホウ殿は風味や香りに敏感な方。そのホウホウ殿であればと思い試作をお願いしたのですが、どうやら上手くいったようです。
そんな訳で、わたしはディレンジットさんに香水の楽しみ方を説明しました。
頭の中の記憶では、香水は自分の体臭を隠すために使用するものでしたが、これはディレンジットさん本人が楽しむためのもの。
ディレンジットさんはわたしの説明通り、肘の裏側など、体温が高く香水が揮発しやすい場所にちょこっと付け、袂をぱたぱた。「へえ」と「ほお」を繰り返した後、
「道理だ。潮の匂いを落とさねえと、こいつは楽しめねえ」
「お花の香り成分を抽出し、お酒に混ぜたものです。なので、完全にそれだけを楽しむというわけにはいかないのですけれど……」
「いや、いい。これでいい」
「無くなったら近くの島に寄ってください。各島の男衆に作り置きを用意しておくよう、お願いしておきます。……ですよね? ホウホウ殿」
「え? ええ、伝えておきます。香りの組み合わせに難儀しそうですが、物自体は作れるでしょう」
おや? ホウホウ殿にしてはめずらしく、何だか呆けているような。しかし、流石はホウホウ殿。話が早くて助かります。
わたしがホウホウ殿の采配にほっとしていると、ディレンジットさんはこきりと首を鳴らして、
「香りを纏う、か。面白いことを考えやがる。ウッドが言ってたな、ゼフィリアの姫さんはすげえとか何とか。ああ、その通りだ。全く頭がイカれてやがんぜ……」
そう言って、今度こそ海の方に歩き始めました。
わたしはもう一度、その白い背中に向かって、
「あの、せめて日が暮れるまでお休みになっては……」
「知らねえよ」
ディレンジットさんは立ち止まり、ほんの少しだけ振り向いて、
「俺は好きにやるさ」
不機嫌そうに言い放ち、そのまま海の方に行ってしまいました。
残されたわたしがちょっとショボーン状態になっていると、ホウホウ殿が我に返ったようにはっとして、
「俺はてっきり、料理に使うものだとばかり……」
「香りを付けた油自体はゼフィリアでよく使うのです。お風呂に直接入れたりはしませんが、髪を洗ったり、お肌に塗って肉の調整に使ったりと」
「ああ、そういえば……」
「すみません、用途もお話するべきでした」
なるほど、時間が無かったので用途のお話をはしょってしまっていたのですが、どうやら勘違いをさせてしまったみたいです。
ホウホウ殿は信じられないといったようにかぶりを振り、
「しかし、あんなに喜んでいるジットんを見たのは初めてです……」
「え、あれは喜んでいたのですか!?」
「ええ、もうウキウキでした」
「ウッ、ウッキー?」
思わずモンキーみたいな声を出してしまいましたが、ともかく喜んでいただけたのなら何よりです。
ディレンジットさんはアーティナの男性。舌はまともぽいですが、やはり草木に対する執着はあるようで。
思い出すのは先代銀海、オルグノットさまのこと。オルグノットさまは音楽が好きで、昼の陸によく足を運ばれていたのだとか。
五海候の世界は日の巡りのない夜の海。そんな時間感覚で生きていたら、人としての感情が摩耗してしまっても不思議はありません。夜の海に居続けることがストレスにならないはずがないのです。
「ささやかな楽しみですが、せめて、ひと時でも陸を思い出せるようになってくれればと……」
「アンデュロメイア様……」
「わたしたちにはこれくらいしか出来ませんので……。あ、そうです」
そこでわたしはあることを思い出し、着物の帯に挟んであった気込め石を取り出しました。左手に纏わせ、起動。
「ところでホウホウ殿、こちらを試してみていただけませんか?」
「どのようなものでしょう?」
気込め石に込められた情報から書を複製。青と紫の紐で綴じ、ホウホウ殿に渡しました。
「フェンツァイさんの書いたお話です」
「は?」
おおっと、ブリザードゥ……。
久しぶりに見るホウホウ殿の氷点下の視線に、わたしは心の中で鼻血。いえ戦慄。本を持つホウホウ殿から、「ありえない」という思念がビシビシ伝わってくるのです。そんなに、そんなに嫌いなのですかホウホウ殿……。
「えあー、大丈夫です。これは健全な内容ですので」
「アレが、健全?」
「そもそもあっち方面じゃなくてですね。栗鼠と兎のお話でして」
「栗鼠と、兎で?」
「うーん?!」
根深い!!
まさかホウホウ殿にまでかけ算的連想が刷り込まれようとは! げに恐ろしきはタイロン文学!
わたしがお渡したのは、フェンツァイさんの書いた栗鼠と兎の物語。人には色々な側面があります。確かにフェンツァイさんのお脳はおピンク過ぎてアレですが、だからと言って全てを毛嫌いするのはホウホウ殿らしくないと思うのです。
「どうしても無理なら読まずに消してしまっても構いませんので……」
「いえ、アンデュロメイア様の薦められるものです。何かお考えがあってのことでしょう」
「えあー……」
いえ単純に共感が欲しいだけと言いますか。食べ物と同じで、わたしが好きなものを気に入ってくれたらなーという、単なる布教活動なのですが、ホウホウ殿はちょっとわたしを信用し過ぎだと思うのです。
夕暮れを背景に、その色を濃くするオーロラのカーテン。
白い三つ編みを震わす、冷気をはらんだタイロンの風。
ホウホウ殿は、ふう、と息を吐き、それから、いつも通りかわいい笑顔で、
「もう日が暮れます。参りましょう、お供致します」
「はい、よろしくお願いします」
「おはようございます、ホウホウ殿」
「おはようございます、アンデュロメイア様」
青空を透かす壁と吹雪を透かす壁に挟まれた、境界の空間。
氷の建材が投射する不思議な光に包まれた、朝の時間。
数日後の図書蔵。わたしは今日もホウホウ殿のもとを訪れました。
机の上には相変わらず大量の巻物と、湯気を立てるお茶碗が二つ。わたしはその巻物に記された数字を指でなぞり、追っています。
向かいにはわたし同様、いつも通り資料整理を続けるホウホウ殿。わたしの目的はホウホウ殿に早く寝てもらうことなのですが、そう言い出せずにいるのです。
というのも……、
「あの、ありがとうございます、ホウホウ殿。本来ならば、これはわたしがやらねばならないことですのに……」
「いいえ、アンデュロメイア様。石作りの口伝のみならず、限られた日々の糧とどのように向き合っていくか。それを知り広めることもまた、枝葉を伸ばす取り組みであると考えます。何よりこの情報量、とても一人で抱え切れるものではありません」
「うう、おっしゃる通りれふ……」
今追っているのは、アルカディメイアでわたしがしていた研究の続きなのです。
言葉で縛る生活用石作り、そしてその石を使用しての生産活動。その行いの結果、我々の身体にどのような影響が出ているのか。
ホウホウ殿はタイロンでの数字を纏め上げ、独自に動いてくれていたそうで。これでは早くお休みになってくださいなどと言えません。
それに、本島でもアルカディメイアでも、わたしの作業を手伝ってくれる人は一人もいなかったので、ぶっちゃけ超助かっているのです。
ホウホウ殿は、机の上に置かれた石から新たな巻物を作り出し、
「貴女は大変慎重な方だ。こうして数字の集積と向かい合うと分かります。貴女の提示してくれた資源加工における様々な手法。その多くが実現に至っていないのは、保管のための陸の面積を考えてのことでしょう」
「は、はい、その通りです」
「あれば使う、無ければ諦める。それが俺達でした。備えのある生活というのがどのようなものか、今まさに実感している所です」
その巻物に記されているのはタイロンのみならず、ほぼ全世界の総生産、そのデータ。ホウホウ殿が各島の男衆に呼びかけ、数字を集めたもの。
このデータのおかげで今まで不明だった数字が明確なものとなり、こちら側で管理する負担が大幅に減ったのです。特にアーティナの。
わたしは巻物の数字を追いながら、心の中では完全にホウホウ殿マンセー状態。シェンスンさまやリルウーダさまも手を尽くしてくださっていますが、やはり一番頼りになるのはホウホウ殿です。
紅茶の湯気が揺れるだけの、静かな時間。
しばらくして、作業を続けていたホウホウ殿が、思い出したようにポツリと、
「驚きました……」
わたしが顔を上げると、「ダメ上の書いた動物の話です」と続け、
「確かに、俺でも読める。楽しめる内容でした。ホロデンシュタックの奴等が書いたものとは読ませ方が違う。主人公の視点を通し、その世界を描く。俯瞰的な説明が無いからこそ生まれる言葉の機微と、そして何より情緒があった。あれに比べれば、ホロデンシュタックの語りは淡泊なのでしょう。しかも、恣意的な表現はきちんと働いているように思えます」
ホウホウ殿はいつも通りの冷静な口調で、
「俺以外にも、あれを好む男はおるでしょう」
わたしは巻物に目を落としたままのホウホウ殿に向かい、
「あのー、ホウホウ殿。嫌いなものは嫌いで、苦手なものは苦手でいいでいいと思います。わたしは島主になる身ですが、全てのものに分け隔てなく好意を持って、とは参りません。わたしもその、あっち系のお話は苦手なので……」
すると、ホウホウ殿は驚いたようにお顔を上げ、
「そうだったのですか。その、全世界で大人気、これこそが女性の嗜みだと諭されたもので」
「絶対違います」
わたしは誤解が誤解を生むようなあの母娘のフォローを全否定。するとホウホウ殿は安心したように微笑み、自分のために淹れたお茶に口を付け、
「ありがとうございます。少々窮屈な思考に陥っておりましたが、お陰様で気が晴れました。やはりアンデュロメイア様は他人の心の理解が深い。ジットんのこともそうです。貴女のように人の喜びを考え、それを与えられる人間はそうはおりますまい」
「う、うーん……?」
うんうん納得するホウホウ殿に、わたしは嬉し恥ずかし。盛大にお口をむにゃむにゃさせました。
民の生活を把握し、慈しむこと。それはリルウーダさまやシェンスンさまも仰っていたことですが、わたしのこれはあくまで個人的なことなのです。
それに、ホウホウ殿はわたしより十も年上で、ぶっちゃけわたしよりずっと頭のいい人だと思うのです。そんな人がわたしを信用してくれる、そのこと自体は嬉しいのですが、やはりちょっと困ってしまうと言いますか。
困ってしまったわたしは巻物から手を離し、もじもじしながら、
「わたしはその、そんな大層な人間ではないのです。わたしはただ、その……」
それから俯き、視線を落としました。その先に映るのはホウホウ殿が作ってくれた、真っ白な着物。
「自信が欲しいのです……」
その着物をぎゅっと握る、わたしの両手。
「こんな肉のわたしでも生きていていいんだっていう、自信が……。人の役に立っている時だけは、それが許されているような気がして……。おこがましいのは分かっているのです。それでも思うのです」
零れるように口から落ちる、わたしの本音。
「同じになりたいのです……」
アルカディメイアでシュトラお姉さまに話した、諦めていたはずの願望。わたしの弱音。
「みなと同じ、当たり前の人間として認められたいのです。みんなの輪の中に入りたいのです……」
止まる時間。
紅茶から立ち上る湯気が空気に揺れるだけの、何もない時間。
ホウホウ殿はしばらく黙っていましたが、ことりと机にお茶碗を置き、
「あなたは孤独で、悔しいのですね」
それから、ホウホウ殿は一度小さく息を吸って、
「あなたの頭の中に、物語はありますか?」
その言葉に、わたしの心臓が跳ね上がりました。頭の中の記憶のことを言われたのかと、一瞬動揺してしまったのです。
ホウホウ殿は顔を上げたわたしと真っ直ぐ向き合い、
「その物語は、きっとあなたを助けてくれる。きっとあなたを支えてくれる。物語というものは、個人の頭の中で完結するものです。しかし、だからこそ分かる。人は一人ではないのです」
ホウホウ殿の吸い込まれるような紫の瞳。
「物語は繋がります。物語は広がります」
わたしを一人の人間として、対等な存在として扱ってくれている。真摯な眼差し。
「物語は、あなたをひとりぼっちになどさせません」
それはお母さまとも、他の誰とも違う、わたしを安心させてくれる言葉。体の芯に火を灯すかのような、温かな感情を伴った言葉。
体の中に宿ったその熱に、わたしがしばらくぼうっとしていると、
「アンデュロメイア様はどのような物語がお好きですか? やはり、あの動物たちのような?」
「え? あ、はい、そうです!」
ホウホウ殿が持ち出してくれた話題で、わたしはようやくいつもの思考に立ち戻りました。
「日常もの、というのでしょうか。当たり前の生活が、当たり前のように続いていく。そういう記述に触れた時、どうしようもない安らぎを覚えてしまうのです」
「いつまでも続く日常、なるほど……」
「ホウホウ殿はやはり冒険ものがお好きなのですか?」
「ええ、子供の頃は夢中になったものです。魚の視点で書かれた話に感化されまして、海に潜るのが楽しくて仕方がありませんでした」
「ホロデンシュタックでも人気のお話ですね。海の世界の描写がとても機知に富んでいて、わたしもわくわくしながら読みました」
「あれは異なる世界の代入がよく出来ています。別の生き物の視点で見ると、海が全く違う表情を見せる。やはり人の想像力に触れる瞬間というのはたまらないものです」
そこまで話したホウホウ殿はお茶碗を持ち、紅茶をひと口。
「文化が変われば物語の在り方も変わる。これからは既存の形に捉われない、新しい物語が生まれてくることでしょう」
それはホロデンシュタックでディッティーさんが言っていた、この世界の流行。お料理が普及し、お風呂が習慣になり、この世界の人々の暮らしの形が変わったからこそ生まれる物語。
少し余裕が戻ってきたわたしはお茶碗を手に、紅茶をひと口いただき、
「ホウホウ殿は、例えばどんなお話が読みたいですか?」
「そうですね……」
ホウホウ殿は吹雪にけぶる透過壁の外に目を向け、
「空を渡る、鳥の物語を」
わたしは遠からず、ゼフィリアに帰ることになるでしょう。そうなれば、ホウホウ殿とこうやってお話することが叶わなくなってしまう。
ですが今は、今だけは。
この人とこれからの、未来の話を。
「わたしも是非読んでみたいです。いつかこの世界に、わたしたちの望む物語が生まれてくるでしょうか?」
ホウホウ殿は昨日と同じ、とてもかわいい笑顔で、
「ええ、きっと」
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