第90話 貴女が眠る陸だから
暗い闇を横切り落ちていく、大粒の白い雪。
透過壁から見下ろす、真っ黒な夜の海。
夕食後のお風呂を終えた、就寝前の夜の時間。
「ふー、いいお湯加減でした」
わたしはタイロン自慢のお風呂からお部屋へ戻るため、氷の回廊を歩いています。ホウホウ殿の作ってくれた着物を羽織っているので湯冷め対策は万全、ほかほかなのです。
「フッ、風呂上りにはやはりコレ。流石ホウホウが気に入った甘味よ。いくら食べても飽きることが無い」
「えやー、だからといってそればっかり食べるのはまたどうかと思うのですが……」
わたしの右隣、山盛り杏仁豆腐の器を片手に、当然のように並んで歩くシェンスンさま。立ち食いならぬ歩き食いで、とてもお行儀がわるいと思うのですが、言ってもやめてくれないのです。ちな、イーリアレも当然のように激盛り杏仁豆腐を頬張り中。
「ふむ、果物を砂糖漬けにした方が全体の甘さが控えめに感じるとは、味覚とはまこと不思議な感覚よな」
わたしの左隣、当然のように並んで歩くフェンツァイさん。立ち食いならぬ歩き食いで、以下略なのです。
「次はガナビアの味の濃い果物を藻に練り込んでみてはどうか」
「母上、それ慧眼」
そんなルンルン状態のお二人に挟まれ、わたしは小さくため息を吐きました。ホウホウ殿の態度が軟化したとかで、お二人はここ数日ずっとこんな感じなのです。
「ていうか、わたしたちはあっち方面じゃないお話も書くのだぞ、とホウホウ殿に最初から紹介しておけば、こういう事態にならなかったと思うのですが……」
わたしの指摘にシェンスンさまとフェンツァイさんはお顔を見合わせ、
「その発想は思い浮かばなんだ……」
シェンスンさまは感心したように匙を咥えて唸りました。フェンツァイさんは杏仁豆腐を食べ終え、器を消去。歩きながらこてんと首を傾げ、
「あれはあくまで習作として書いたもの。ホウホウが認める理由が全く分からぬ。ホロデンシュタックの書、特に冒険ものは使い古された構成ばかりではないか」
「フェンツァイさんもお料理をする動物のお話を考えていたじゃないですか。ほら、流行を作るとか何とか。ホウホウ殿はその様式の中で、これから生まれてくる物語を楽しみにしていると仰っていましたよ」
フェンツァイさんは、そういえば、と腕を組み、
「うむ、確かに。文化が変われば表現も変わる。ホウホウはその兆しに可能性を見出したのだな」
歩調を緩めてうんうん頷きました。
ちょっとズレた認識にわたしが不安になっていると、杏仁豆腐を食べ終えたシェンスンさまが器を消去し、
「メイちゃんよ。予定通り、各島で集積した数字をアルカディメイアで統計する手筈は整えておいた」
「ありがとうございます、シェンスンさま」
「うむ。まあ、男に任せておけば生産も流通も問題あるまい」
そう、わたしは明日、ゼフィリアに帰る予定なのです。ホウホウ殿のおかげで今まで不明だった数字がきちんと提示されるようになったので、ひとまず管理の目処が立ったのですね。
「男衆の需要も聞いてはみるが、書ならともかく、香りを保存する液体などと言われてもな……」
「あれはアーティナ限定だと思います、多分……」
「フッ、男衆がマジもんのかけ算に目覚めてくれれば私大喜びなのだが……」
「自重。シェンスンさま、自重しましょう。ね?」
リアルとファンタジーの境界が曖昧になっているシェンスンさまを窘め、わたしはある可能性を思い付きました。
ホウホウ殿が望んだ物語をフェンツァイさんが書き上げたら、それはとてもすてきなことだと思ったのです。
わたしはそのことを伝えようと、隣を見上げ、
「そうです、ファンツァイさん。……あれ?」
一緒に歩いていたはずのフェンツァイさんの姿がありません。
わたしが背後を振り向くと、フェンツァイさんはわたしたちと少し離れた場所で立ち止まっていました。一切の動きを止め、透過壁の向こうを見つめているのです。
フェンツァイさんの端正なラインの横顔。見開かれた紫色の瞳。
わたしはその視線を追い、透過壁の外に目を向けました。暗い夜、吹雪の向こう。真っ黒な海の上に等間隔で立つタイロンの男衆。その中から、沖に向かって歩き始めた一人の男性。
その背中には、白く長い三つ編みが――
わたしが息を飲んだその時、フェンツァイさんが右手に水込め石を纏い、透過壁を消去。そして、
「戻れ、フェンツァイ! 追ってはならん!」
「フェンツァイさん! イーリアレ、あなたはここにいて!」
「ひめさま!」
吹雪の中へ飛び出すフェンツァイさんを追い、わたしも風を纏いました。壁の外にふわりと身を躍らせ、速駆けを起動。
移動後、滞空しながら周囲を確認。流氷に混じって白い舟を走らせるフェンツァイさんを見付け、もう一度速翔けを起動。わたしはその小舟に飛び乗り、
「フェンツァイさん!」
吹雪の中で荒い息を吐く、フェンツァイさんの必死の形相。
わたしはフェンツァイさんから一度陸に目を向け、考えました。大雪の向こうに見えるのはオーロラのカーテン。その下に横たわる氷の長城。
わたしは舟の向かう先、真っ黒な波のうねる水平線に目を向け、
「わたしが風を作ります。フェンツァイさんは帆を……!」
「……頼む!」
どれくらい経ったのでしょう。
どれくらい舟を走らせたのでしょう。
吹雪が止み、頭上に星が瞬き始めた頃。
明らかに様子が変わり始めた夜の海の姿。波も風もない、海に不慣れなわたしでも分かる、不気味な凪。
既にわたしたちはホウホウ殿の姿を見失っています。はたして、この先にいるのかどうかすら。もう帆を操るフェンツァイさんを信じるしかありません、わたしがそう思った時、舟首に何かが当たりました。
それは青白く光る、菊のような白い花。
驚いて辺りを見渡せば、海上にはいつの間にか一面の花畑が広がっていました。大輪の菊が流れてくるその先、彼岸の風景をゆっくり歩いていく一人の男性。
ホウホウ殿、そう声を掛けようとして、わたしの喉は止まってしまいました。
そこで、そこまで来て、やっと気付いたのです。
ある一線を境界に、星が消え、真っ暗闇になっている空。
ある一線を境界に、海が消え、真っ暗闇になっている世界。
目の前の視界全てが、いつのまにか巨大な影に覆われていたのです。それが全身でも上半身でもない、海の上にちょこっと飛び出た、氷山の一角。すべてを闇に塗り込める巨大な生き物。
シグドゥ。
この星が、どこか別の空間にぶつかってしまったのではないか。そう思えるほど巨大な、現実感の全く湧かない生き物。
あれはわたしたちのことなんか気にかけてもいない。そもそも意識なるものがあるのかどうかすら分からない。
奇妙な感覚。危険なはずなのに、何も感じないのです。海と空、周囲の風景と同じように、わたしの心も動かないのです。
恐怖。焦燥。生存本能。
人の生み出すアラートが全て麻痺してしまうほど、かけ離れた存在。
そして、その闇に向かい、着実に一歩一歩近付いていく白い後ろ姿。
蟻が人間の進路を変えようとして、果たしてそれが可能なのでしょうか。この世界の男の人達が続けてきたのは、そういうことなのです。
臆さず、怯まず、やり遂げる。
その異様を前に、その覚悟を前に、わたしの体はぴくりとも動かなくなってしまいました。今、声をかけないと、ホウホウ殿は行ってしまうというのに。
「あっ、ぐっ……」
か細く漏れるその声で、わたしの体がようやく動くようになりました。隣を見ると、フェンツァイさんが手で口を押さえ、大きな体を小さく縮こませ、必死に耐えているのです。
夜、海に向かう男に声をかけてはいけない。
夜、海に向かう男を追いかけてはいけない。
男は陸で死なず、海で死ぬ。
「フェンツァイさん……」
わたしは震える手でフェンツァイさんの背を抱きながら、もう一度、世界の果てに目を向けました。
そこに向かう小さな体。
その背に揺れる、白く長い三つ編み。
思い出すのはイーリアレのあの歌。
夜を追った、イーリアレの言葉。
『ただ、あるいてく。
いちめんのはなばたけを、ふりかえりもせず』
わたしは舟を回頭させ、風を作りました。
あの人が向かう先の逆、わたしたちの住む陸に向かって。
薄暗闇の中、ほのかに輝く銀色の髪。
その髪を指で撫で、また梳き入れる。
タイロンの壁屋敷、わたしにあてがわれた氷のお部屋。海から戻ったわたしはイーリアレの頭を抱きながら、寝床に横になっています。
眠れるはずがありません。
わたしがイーリアレの髪を透く右手の甲。纏わせているのは白い気込め石。感覚拡張能力を最大にし、周囲の生体反応を限界まで受信し続けながら、気を張っているのです。
イーリアレの鼓動を数えるだけの、静かな時間。
やがて、その数があやふやになった頃。
「っ……!!」
わたしはその気配に飛び起き、隣で眠るイーリアレを揺り起こしました。
「イーリアレ! 人を呼んで!」
「ひょうち!」
寝起きでやや動きが怪しいものの、イーリアレはわたしの声で部屋を飛び出していきました。上着を羽織るのも忘れ、わたしも部屋を飛び出します。風を纏い、回廊を高速で移動。一番近い吹き抜けに到着し、わたしはその気配を発見しました。
一階入り口から続く夥しい量の血の跡。その先に倒れている一人の男性。わたしは即その場所へ速駆けを行いました。
腰巻が血で濡れるのにも構わず膝を突き、長い白髪を散らしたうつ伏せの体を裏返し、状態を確認。
千切れた襟元、左胸から腹部にかけて、えぐられるように刻まれた深い裂傷。雪のような白い肌に刻まれた、凄惨な傷跡。
微かな潮と血の匂いの中、わたしは落ち着いて深呼吸。氷の床に正座し、胸の前で手を合わせました。
そして、わたしの両手の中に生まれる、紫色に輝くひし形の石。
「思考速度切り替え、圧縮言語解放。構築開始」
自動的に動くわたしの口。機械的に紡がれるわたしの言葉。両手をかざし、次に生み出すのは七つの白い気込め石。
「構築完了。一斉展開、解析開始」
気込め石は生き物に関する石。使用するのはその感覚拡張機能の延長、読解能力。読み込むのはこの人の生体情報。かなめ石で七つの白い石にこの人の全身をスキャンさせ、自動で情報を読み込ませる。
「解析作業完了、機能確認。段階以降、構築開始」
七つの石から解析完了の手応え、わたしの両手から即座に生まれる大量の気込め石。その数、三十八。
しかし……、
「構築完了、一斉展開。機能解放、構成開始」
いつもなら肉に変質するはずの気込め石が解けない。かなめ石と気込め石による人体補完構成が働かない。
「機能解放、構成開始」
わたしはもう一度言葉を紡ぎ、かなめ石にコマンドを送りました。その時、
「行き違いになっちゃったのか……」
ぽつりと零された、小さな声。わたしの傍らにいつの間にか立つ、全身を雪と氷塗れにしたタイロンの男性。
リイジェンさん。
リイジェンさんは白い息を吐き出し、ほんの少しだけその表情を歪めました。
「機能解放、構成開始」
「ホウホウ!」
わたしが再びかなめ石に指令を送っていると、フェンツァイさんとシェンスンさまが氷の床に下り立ちました。そして、
「あ、あぁ! ああああああぁぁ……!」
フェンツァイさんは血塗れの袂を力の限り握り締め、声を上げて泣き始めました。吹き抜けに轟く悲痛な叫び声を聞きながら、わたしは再度構成を実行。
「機能解放、構成開始」
わたしの意思に反し、こつんと、床に石が落ちる音。
シェンスンさまは石を構えるわたしに近付き、
「メイちゃん……」
「機能解放、構成開始」
こつんと、また石が落ちる音。
「メイちゃんよ……」
「機能解放、構成、開……」
こつんこつんと音を立て、氷の床に落ちていく、わたしの白い気込め石たち。わたしの制御を離れ空気に消えていく、紫色のかなめ石。
そう、これは当たり前のこと。
わたしが駆け付けた時には、既にこの人の呼吸は止まっていたから。わたしが触れた時には、既にこの人の体温は消え失せていたから。
目の前に横たわっているのは、一人の男性の遺体。
わたしは構えていた両手をだらりと下げ、その遺体を呆然と見下ろしました。しばらくして、わたしはその右手に握られている、あるものに気付きました。それは、石作りの理論では存在しえない、わたしの理解が及ばないもの。
藍色の光を微かに放つ、雪よりも白い純白の石。
わたしは氷のように冷たい指を開き、その手の平を重ねました。ゆっくりと順番に、交互に指を挟み、石を手に取り感じる、喪失の温度。
わたしは純白の石を手に立ち上がり、
「シェンスンさま、どうぞ。ご子息はやり遂げられました。シグドゥの撃退を。そして、二種の石の合成を」
水込め石でもはがね石でもない。二つの石の特性を備えた、完全なる調和と融和。その結晶。
「偉業です」
シェンスンさまはわたしから石を受け取り、驚きに目を見開いた後、
「ふっ、うっ、ううっ……」
漏れ出る嗚咽。崩れていくシェンスンさまの表情と、その体。シェンスンさまは遺体の肩に額を押し付け、声を殺して泣き始めました。
水とはがねの合成石。その石からわたしが読み取れたのは、千年公と呼ばれたひいお爺さまの石にも込められていた、あの言葉。
石に込められた言葉は、「ずっと」
目の前にあるのは一人の男性の亡骸と、その屍にすがりつく家族の姿。
わたしはその光景を眺めながら、ただその場に佇んでいました。
タイロンのホウホウ。
それが、この日の夜を守った人の名前。
一切の波が凪いだ鏡のような水面。
雲一つない青空とオーロラだけを映す、水の路。
壁屋敷から街へと渡る橋の上、わたしはイーリアレと二人で水路を眺めています。
風に運ばれた木の葉が水路に落ち、ゆらゆらと流れていく。その姿が視界から消えるのを待って、
「……参りましょう、イーリアレ」
「はい、ひめさま」
イーリアレががっちりわたしに装着したのを確認し、わたしは風を纏いました。そして、上昇を開始。
この世界には祭事などで人が集まる風習はありません。あの人を海に弔い、シェンスンさまたちにご挨拶を終えたわたしたちは、ゼフィリアに帰るのです。
風を巻き、ゆっくり空に昇っていくわたしとイーリアレ。視界が上がっていくにつれ、その表情を変えていくタイロンの風景。
地平線の彼方まで続く氷の壁。
高い樹々が植えられ、淡い花々が咲きほこる広大な庭園。
見知った民家の玄関口。わたしに向かい頭を下げる、ひと組の夫婦。
ユンシュクさんとリイジェンさん。
わたしがお二人のお辞儀に会釈で返した、その時、
「メイちゃんよ!」
背後から聞こえたその声に、わたしは振り返りました。その声の主、橋の袂に立つのは長身の女性。
フェンツァイさんは肩で息をし、ぐしゃぐしゃになったお顔でわたしを見上げ、
「弟は、書にどのような夢を持った!?」
苦し気な目をわたしに向けました。
あの人が織ってくれた着物をなびかせる、タイロンの冷たい風。わたしはその風にそっと言葉を乗せ、
「空を渡る、鳥の物語を……」
わたしの声が届いたのか、フェンツァイさんは一度俯き、それからもう一度わたしを見上げ、
「その物語、私が書こう!」
無理に弧を描いた口元は、今もまだ震えたまま。でも、その眼差しはあの人と同じ、強い意思が宿った紫色の瞳。
だからわたしは空を仰ぎ、思い描く。
いつか生まれる、白い翼の渡り鳥を。
わたしは頷き、今度はちゃんと自分の声で、
「はい! 楽しみにしています!」
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