第6話 海守のエイシオノーおばあさん(3)

 すだれを通り抜けて入ってくる、湿った空気。

 さわさわと木々が葉ゆらす、小さな音。


 薄暗い自室で、わたしは目を覚ましました。


 視界に映る小さな手の平。朦朧とした意識の中、自分の身体の感覚を確かめるように、握り、開く。


 大丈夫、わたしはわたし。


 でも、何か大切なものを忘れてしまったような……。夢、そう、夢を見たような気がするのです。そして、とても怖い思いをした気がするのですが、記憶に靄がかかったように、何も思い出せないのです。


 それに、何だか今日は、とても瞼が重くて……。


「あっ……!!」


 いけない、と起き上がり、わたしはお布団を畳むのも忘れ、お部屋の外へ。すだれをくぐり、お母さまのお部屋へ。


 そこは収納の類が一切ない、広い板間。がらんとした無人の空間。


 ああ、と思います。


 お母さまは、既に漁に出てしまったのです。


 わたしの唯一のお仕事。朝早く起きてお母さまの髪を整えること。肉の弱いわたしに出来る、たったひとつのお役目。それなのに、


 わたしは寝坊してしまったのです。


 お母さまのお部屋で立ち尽くす、雨上がりの朝。

 わたし一人きりの、無音のお屋敷。


 これで正真正銘、わたしは本物の役立たず。







 じゃらりと音を立てて、すだれをめくる。

 きしりと縁側を踏み、石畳の上に素足を下ろす。


 白み始めた朝の空。

 肌に感じる、湿った空気。


 石畳が敷き詰められた広い広いお屋敷のお庭。雨上がりの冷気を足の裏で感じながら、わたしはふらふらと歩き始めました。


 目の前に広がる、ゼフィリアの風景。お山のふもとに見えるのは、島の人達が住む小さな村。白い石壁のおうちがなだらかな斜面に沿って建ち並ぶ、ゼフィリアにただひとつの村。


 その先に続く暗い砂浜。一面に広がる真っ暗な海。


 わたしが溺れた、憧れの海。


 遠く波の音だけが聞こえる、静かな時間。


 人の声が聞こえない。人の気配を感じない。みんな、自分の食べ物を獲りに出ている時間だから。


 自分の身は自分で食わせる。三つの子供にだって出来る当たり前のこと。それが出来ないわたしは、はみ出し者の不用な存在。


 肉が弱く食事もまともに摂れないわたしは、そのまま死ぬのが当たり前だったのです。生きるに任せ、死ぬに任せる。それがこの世界の当たり前だから。


 わたしは間違ったのです。


 わたしは生きたいと思ってはいけなかった。生きたいともがいてはいけなかった。頭の中の記憶のことなど、話すべきではなかったのです。


 ごめんなさい、お母さま。


 わたしは生まれてくるべきではありませんでした。


 オレンジ色の光を放つ水平線。

 鮮やかに色を変えていく、空と海。

 朝露に濡れきらきらと輝やきながら風に揺れる、島の木々。


 きれいで雄大で、この世界はきっと素晴らしいものなのです。生きていく価値のあるものなのです。


 ぼろぼろと溢れてきた涙が、わたしの視界を歪め始めました。止めようと拭っても、後から後からこぼれてきて、どうしても止まってくれません。


 わたしはわたしを悲しいなんて思ってはいけないのに。わたしは自分を悼んでいいほど、まともに生きてはいないのに。


 涙が溢れて、止まらないのです。


「あ……」


 突然の強い風。その風を身体に受けた瞬間、わたしの身体から、ふっと熱が消え去りました。涙を拭っていた両腕がだらりと垂れ下がり、その指先からこぼれる、冷たい雫。


 落ちて潰れる、小さな一滴。


 石畳に染みを作った涙の跡。その様が、わたしにあることを悟らせ、わたしの足を動かしました。


 自動的に、ゆっくり進み始めたわたしの身体。お庭の端へ、切り立った崖の方へ。弱い肉のわたしが落ちたらきっと簡単に死ねてしまう、そんな高さの崖に向かって。


 一歩、前に進むわたしの足。


 わたしは役立たずの不用な存在。


 一歩。


 島で一番のお母さまが生んだただ一つの汚点であり、恥。


 一歩。


 出来損ないのクズ肉。


 崖下から吹く風にふわりと舞い上がる、わたしの前髪。

 腕にまとわり絡む、長い長い金色のくせっ毛。


 眼下に切り立つ、終わりの断崖。


 あともう一歩。


 わたしの足が宙に踏み出そうとしたその時、視界の端に何かが映りました。わたし、肉は弱いのですけど、お母さまと同じくらい目はいいのです。


 それは人影。階段を登ってくる誰かの姿。


 この世界にも礼儀はあります。大切なものを運ぶ時は急がない。大地を踏みしめ、ゆっくり歩く。それがこの島の、この世界の人たちの礼儀。


 お屋敷に続く階段をゆっくり歩いて上ってくる、ひとつの影。


 エイシオノーおばあさん。


 エイシオノーおばあさんが右肩にマグロのような大きな魚を担ぎ、左手に貝や海草をこれでもかと詰め込んだ籠を抱え、ゆっくり階段を登ってくるのです。


「全部ですよ、お嬢様!」


 エイシオノーおばあさんの大きな声。初めてわたし個人に投げかけられた、おばあさんの言葉。


「食べもんで思いついたこと、全部あたしに話してもらおうじゃないか!」


 エイシオノーおばあさんは一段一段ゆっくりと、しっかり石段を踏みしめ、挑むような眼差しをわたしに向けて、


「この齢で生まれ変わっちまったんですさね! 今日からあたしゃ、これに全てを懸けるんです!」


 それは生まれて初めて見る、エイシオノーおばあさんの表情。仕方がないという諦めでもなく、お母さまの娘だからという愛想でもない。今までわたしに向けられたことがなかった、初めての表情。


 崖から遠ざかり、お庭の入口へ。吸い寄せられるように歩いていく、わたしの体。階段を上がりきり、わたしの目の前に立つ、エイシオノーおばあさんの大きな身体。ゴリラよりもゴリラでゴリラな、快活な筋肉。


 お山の向こうから昇ってくる大きな太陽。頬を伝う涙が温かいものに変わり、わたしの体が、わたしの心が熱を取り戻していく。


「エ、エイジオボーおびゃあさん、わだ、わだし……」

「どうしたんです、ベソなんてかいて」


 エイシオノーおばあさんは、ぼろぼろ泣きじゃくるわたしにきょとんとし、


 それから、太陽よりずっと眩しい笑顔で、


「さあ、新しい人生を始めますよ」


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